「政治的」なるものへのタブー視と弁護士
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
1月8日付けの朝日新聞別刷り折り込み紙「GLOBE」が、「ROCK IS BACK」という特集を組んでいました。文字通り、ロックミュージックの「復活」という切り口で、ジェンダーや人種差別など社会的メッセージを、かつてのようにロックに込める世代の登場と、そうした観点で見たロックの存在感や可能性にスポットを当てたものでした。
そのなかで、日本のギタリストであるSUGIZO氏(53)を取り上げた記事の中に、音楽と政治的・社会的主張が結びつくことにアレルギーがある日本の事情が登場します。記事も言及していますが、1960~70年代には、ロックやフォークに政治的・社会的メッセージが込められるのは当たり前でしたが、学生運動や新左翼運動の衰退など、記事のいう「政治の季節」の終わりとともに、タブー視が始まった、と。
それに違和感を持ち続けたという同氏も、そのタブ―視による編集者からの「政治的」表現の拒絶や、脅迫のようなメッセージを受けた体験を取り上げています。記事は結論として、「多様性の象徴であるロックの表現」が政治的・社会的メッセージ性が含まれてよいはず、とし、表現の抑圧が民主主義の否定であり、それに臆せず発信するという、彼の言葉で締めくくっています。
やや脈絡のない展開といわれるかもしれませんが、この記事を読んで、この日本の大衆の中にある政治的メッセージ、もっと言ってしまえば「政治的」なるものへのタブー視と、しばしば同じような目線を向けられる弁護士という存在について、取り上げてみたくなりました。
もちろん言うまでなく、メッセージの発信が問題とされる音楽と、法律家としての立場が問われる弁護士とは、根本的な前提が違います。しかし、一方で「政治的」というレッテルを貼り、タブー視をする、この国の社会的時代的風潮の中でとらえると、時として共通する、忌避感の対象になっているようにとらえられるのです。
タブー視につながる弁護士の「政治的」批判は、二つの観点で考えるべきだと思います。一つは、弁護士という職業的立場への根本的な誤解。以前も取り上げていますが、弁護士は特定の階層の側に立つ職業ではありません。労使、資本家・有産階級側と社会的弱者の双方をはじめ、あらゆる階層につく弁護士が存在し、またそこに弁護士という仕事の本質的ともいえる特徴があります。
弁護士の側からすれば、弁護士法1条が「人権の擁護」や「社会正義の実現」という使命からすれば、ある意味、それは当然のことです。ただ、その結果として、社会のさまざまな「正義」の主張を背負い、敵対することも宿命づけられている弁護士にあっては、使命である「正義」は、現実的な場面では、その侵害・阻害者を絶対的な社会の「共通の敵」としにくい。
つまり、どういうことになるかといえば、「政治的」と括られる場面でも、「人権」「社会正義」につながる解釈は違っておかしくないし、逆にそれらで括られ、その観点で筋を通す活動が、仮に社会から「政治的」という批判的な目線を向けられても、おかしくない。
むしろ、その局面で言えば、弁護士にしても弁護士会にしても、その意味で筋を通した活動が、「政治的」という烙印を社会から押されるものであったり、たとえ既成政党・政治勢力と同じ方向を向いたものであったとしても、それが批判にさらされる度に沈黙していたならば、果たしてその使命は全うできるという話なのです(「弁護士の『本質的性格』と現実」 「『戦争』と沈黙する弁護士会という未来」 「日弁連『偏向』批判記事が伝えた、もうひとつの現実」)。
もう一つの観点は、そもそも「政治的」意味を含めた「活動家」であることを自身が否定しない、あるいは社会的には文字通りそれを優先させているととれる弁護士への評価です。もっとも前者の立場とこれをどこまで区別すべきなのかは、疑問もあります。つまり、前者のような職業的性格であればこそ、個人の政治信条としての立場としても、それは役立つという発想は当然あるからです(「『超人』弁護士たちへの目線」)。
冒頭の社会的な政治的なタブー視は、もちろんこの両者に注がれますが、より後者に強く反応するものとなるのは当然です。しかし、あたかも弁護士に法律家としての「公正さ」「中立性」を求めるような社会的なタブー視は、弁護士という職業への本質的無理解に止まらす、「非公正さ」「非中立性」批判の中身とは無縁の、冒頭の記事にあるような対「政治的」忌避感に引きずられたものではないか、という気がしてくるのです。つまり、言葉を換えれば、「弁護士としてあるまじき」には、果たして本当の中身はあるのかどうか、ということなのです。
「宗教(的)」ということについても、とりわけオウム事件以降、同様のタブー視の風潮がいれます。しかし、今回の統一教会問題をみても分かりますが、社会的な評価につながる、その当不当の線は、「政治的」タブーよりも引きやすいようにとれます。
もっとも、あえていえば、多くの弁護士の現実的なテーマが、もはやここにあるのか、ということもまた疑問といわなければならない現実があります。弁護士としての妥当性よりも、もはやそういう目線が向けられそうなことに関心がない、あるいは近付かない、近付く余裕もない弁護士は沢山いるはずだからです。
「政治的」とか左傾化を心配するより、むしろ、そういう批判を受けることを覚悟で、政治的社会的少数者の側に立ったり、「臆せず」筋を通す弁護士が、この国に存在しなくなる方を心配しなければならない状況にあるように思えてならないのです。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

にほんブログ村

にほんブログ村


今年もよろしくお願い致します。
1月8日付けの朝日新聞別刷り折り込み紙「GLOBE」が、「ROCK IS BACK」という特集を組んでいました。文字通り、ロックミュージックの「復活」という切り口で、ジェンダーや人種差別など社会的メッセージを、かつてのようにロックに込める世代の登場と、そうした観点で見たロックの存在感や可能性にスポットを当てたものでした。
そのなかで、日本のギタリストであるSUGIZO氏(53)を取り上げた記事の中に、音楽と政治的・社会的主張が結びつくことにアレルギーがある日本の事情が登場します。記事も言及していますが、1960~70年代には、ロックやフォークに政治的・社会的メッセージが込められるのは当たり前でしたが、学生運動や新左翼運動の衰退など、記事のいう「政治の季節」の終わりとともに、タブー視が始まった、と。
それに違和感を持ち続けたという同氏も、そのタブ―視による編集者からの「政治的」表現の拒絶や、脅迫のようなメッセージを受けた体験を取り上げています。記事は結論として、「多様性の象徴であるロックの表現」が政治的・社会的メッセージ性が含まれてよいはず、とし、表現の抑圧が民主主義の否定であり、それに臆せず発信するという、彼の言葉で締めくくっています。
やや脈絡のない展開といわれるかもしれませんが、この記事を読んで、この日本の大衆の中にある政治的メッセージ、もっと言ってしまえば「政治的」なるものへのタブー視と、しばしば同じような目線を向けられる弁護士という存在について、取り上げてみたくなりました。
もちろん言うまでなく、メッセージの発信が問題とされる音楽と、法律家としての立場が問われる弁護士とは、根本的な前提が違います。しかし、一方で「政治的」というレッテルを貼り、タブー視をする、この国の社会的時代的風潮の中でとらえると、時として共通する、忌避感の対象になっているようにとらえられるのです。
タブー視につながる弁護士の「政治的」批判は、二つの観点で考えるべきだと思います。一つは、弁護士という職業的立場への根本的な誤解。以前も取り上げていますが、弁護士は特定の階層の側に立つ職業ではありません。労使、資本家・有産階級側と社会的弱者の双方をはじめ、あらゆる階層につく弁護士が存在し、またそこに弁護士という仕事の本質的ともいえる特徴があります。
弁護士の側からすれば、弁護士法1条が「人権の擁護」や「社会正義の実現」という使命からすれば、ある意味、それは当然のことです。ただ、その結果として、社会のさまざまな「正義」の主張を背負い、敵対することも宿命づけられている弁護士にあっては、使命である「正義」は、現実的な場面では、その侵害・阻害者を絶対的な社会の「共通の敵」としにくい。
つまり、どういうことになるかといえば、「政治的」と括られる場面でも、「人権」「社会正義」につながる解釈は違っておかしくないし、逆にそれらで括られ、その観点で筋を通す活動が、仮に社会から「政治的」という批判的な目線を向けられても、おかしくない。
むしろ、その局面で言えば、弁護士にしても弁護士会にしても、その意味で筋を通した活動が、「政治的」という烙印を社会から押されるものであったり、たとえ既成政党・政治勢力と同じ方向を向いたものであったとしても、それが批判にさらされる度に沈黙していたならば、果たしてその使命は全うできるという話なのです(「弁護士の『本質的性格』と現実」 「『戦争』と沈黙する弁護士会という未来」 「日弁連『偏向』批判記事が伝えた、もうひとつの現実」)。
もう一つの観点は、そもそも「政治的」意味を含めた「活動家」であることを自身が否定しない、あるいは社会的には文字通りそれを優先させているととれる弁護士への評価です。もっとも前者の立場とこれをどこまで区別すべきなのかは、疑問もあります。つまり、前者のような職業的性格であればこそ、個人の政治信条としての立場としても、それは役立つという発想は当然あるからです(「『超人』弁護士たちへの目線」)。
冒頭の社会的な政治的なタブー視は、もちろんこの両者に注がれますが、より後者に強く反応するものとなるのは当然です。しかし、あたかも弁護士に法律家としての「公正さ」「中立性」を求めるような社会的なタブー視は、弁護士という職業への本質的無理解に止まらす、「非公正さ」「非中立性」批判の中身とは無縁の、冒頭の記事にあるような対「政治的」忌避感に引きずられたものではないか、という気がしてくるのです。つまり、言葉を換えれば、「弁護士としてあるまじき」には、果たして本当の中身はあるのかどうか、ということなのです。
「宗教(的)」ということについても、とりわけオウム事件以降、同様のタブー視の風潮がいれます。しかし、今回の統一教会問題をみても分かりますが、社会的な評価につながる、その当不当の線は、「政治的」タブーよりも引きやすいようにとれます。
もっとも、あえていえば、多くの弁護士の現実的なテーマが、もはやここにあるのか、ということもまた疑問といわなければならない現実があります。弁護士としての妥当性よりも、もはやそういう目線が向けられそうなことに関心がない、あるいは近付かない、近付く余裕もない弁護士は沢山いるはずだからです。
「政治的」とか左傾化を心配するより、むしろ、そういう批判を受けることを覚悟で、政治的社会的少数者の側に立ったり、「臆せず」筋を通す弁護士が、この国に存在しなくなる方を心配しなければならない状況にあるように思えてならないのです。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

にほんブログ村

にほんブログ村


スポンサーサイト