「権力がない人」が必要とする弁護士
日弁連会長の宇都宮健児弁護士が、会長就任前に出された著書「反貧困――半生の記」(花伝社)のなかに、「道標」と名付けられた章があります。このなかで、彼の弁護士という仕事に対する基本的な考え方・思いがつづられているところがあります。
「現代の風潮として、弁護士になって高い収入を目指す人があるようですが、私にはそれが分かりませんね。日本の『弁護士法』第1条が弁護士の使命について記していますが、『弁護士は基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする』とある。まさにそれこそが弁護士のなすべきことだと思います」
現実に高い収入をとった弁護士を見て、弁護士とはそういうものだと社会が認識し、結果、何だかんだいって弁護士は儲けている、ちょっとやそっと増やしてサービス競争させたって、破たんするわけがない、という話になっているのが現状です。
そうした状況を作った根っこには、宇都宮弁護士がいう「弁護士になって高い収入を目指す」人々がつくった「風潮」があることも、否定できないように思います。
では、弁護士法1条の使命を実践する弁護士とは、いかなるものなのか。宇都宮弁護士はこう書いています。
「人権を擁護しなくてはいけない『人』の中で、財力や権力を持っている人は自分の権利を自分自身で守れる場合が多い。しかし、どちらかといえば、社会的・経済的弱者はそれを守れない人たちなんですね。ですから、人権擁護を目指すという抽象的な言葉は聞こえが良いけれど、これを忠実に具体的に実践しようとすれば、弁護士は社会的弱者、経済的弱者の人権を守り、味方になるという方向が素直に出てくると思います」
弁護士は少数者・弱者のために闘う存在、そういう存在であればこそ、そこに確固たる社会的意義があるという考え方は、ある意味、かつての弁護士会ではポピュラーな考え方でした。ある人はこれを信念として実践し、あるいはある人は建て前だったかもしれませんが、少なくともここに弁護士たる存在の説得力があることを理解していた人は多かったように思います。
ところが、権力のある人の弁護をする弁護士のイメージの方が、実は社会でどんどん広がってきたと思います。少数者・弱者の弁護は、当然、おカネになりません。このことは誰でも分かります。儲けているのは、おカネがある人たちの味方をしているから、と見られて当然です。
弁護士が医者と並んでステータスとして語られてきた過程で、当然、宇都宮弁護士のいうような弱者救済の弁護士イメージよりも、権力者の権利を守り、おカネを得ている弁護士イメージが、どんどん社会の中で肥大化してきたのです。
弁護士のいう弱者擁護の姿勢は、本当にそれを信念として実践している人がいても、全体の弁護士を語るに当たっては、むしろそれは建て前ととらえ、それこそまともにそう受け止める大衆は、少数者になっているのが現実だと思います。
そのことが、現在の弁護士増員問題や弁護士の経済的な窮状について、弁護士界を包囲している世論状況に大きく影響しているように思えます。およそ、権力を持たない、財力もない、多くの大衆にとって必要な弁護士は、どういう志の弁護士かはいうまでもありません。今、「競争」や「淘汰」という言葉とともに進行する政策が、その大衆にとって本来必要な弁護士を生かすものなのか、殺すものなのか、その肝心なところを国民が分かっていないという状況があると思います。
もちろん、その責任は、前記したように弁護士自身にもあるとは思います。
かつて話を聞いたある弁護士会長は、弁護士をしていた父親から、「金儲けをしたいならば、弁護士をやめてからにしろ」と怒られたといわれ、そのことがずっと胸にある、と言っていました。そうかと思えば、ある著名弁護士は「まず弁護士は株で儲けるのが成功法」と言っていました。ずっと前から、弁護士の精神には、さまざまなものがあったことも事実です。
これからの「競争」「淘汰」のなかで、生きる残ることを目指す、生き残るためにおカネになる仕事を目指した結果、残った弁護士が、本当に権力のない大衆が必要とした、宇都宮弁護士がいうような弁護士であるのか――社会自体が、原点にかえって、考え直すべきだと思います。
投稿サイト「司法ウオッチ」では皆様の意見を募集しています。是非、ご参加下さい。
http://www.shihouwatch.com/

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「現代の風潮として、弁護士になって高い収入を目指す人があるようですが、私にはそれが分かりませんね。日本の『弁護士法』第1条が弁護士の使命について記していますが、『弁護士は基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする』とある。まさにそれこそが弁護士のなすべきことだと思います」
現実に高い収入をとった弁護士を見て、弁護士とはそういうものだと社会が認識し、結果、何だかんだいって弁護士は儲けている、ちょっとやそっと増やしてサービス競争させたって、破たんするわけがない、という話になっているのが現状です。
そうした状況を作った根っこには、宇都宮弁護士がいう「弁護士になって高い収入を目指す」人々がつくった「風潮」があることも、否定できないように思います。
では、弁護士法1条の使命を実践する弁護士とは、いかなるものなのか。宇都宮弁護士はこう書いています。
「人権を擁護しなくてはいけない『人』の中で、財力や権力を持っている人は自分の権利を自分自身で守れる場合が多い。しかし、どちらかといえば、社会的・経済的弱者はそれを守れない人たちなんですね。ですから、人権擁護を目指すという抽象的な言葉は聞こえが良いけれど、これを忠実に具体的に実践しようとすれば、弁護士は社会的弱者、経済的弱者の人権を守り、味方になるという方向が素直に出てくると思います」
弁護士は少数者・弱者のために闘う存在、そういう存在であればこそ、そこに確固たる社会的意義があるという考え方は、ある意味、かつての弁護士会ではポピュラーな考え方でした。ある人はこれを信念として実践し、あるいはある人は建て前だったかもしれませんが、少なくともここに弁護士たる存在の説得力があることを理解していた人は多かったように思います。
ところが、権力のある人の弁護をする弁護士のイメージの方が、実は社会でどんどん広がってきたと思います。少数者・弱者の弁護は、当然、おカネになりません。このことは誰でも分かります。儲けているのは、おカネがある人たちの味方をしているから、と見られて当然です。
弁護士が医者と並んでステータスとして語られてきた過程で、当然、宇都宮弁護士のいうような弱者救済の弁護士イメージよりも、権力者の権利を守り、おカネを得ている弁護士イメージが、どんどん社会の中で肥大化してきたのです。
弁護士のいう弱者擁護の姿勢は、本当にそれを信念として実践している人がいても、全体の弁護士を語るに当たっては、むしろそれは建て前ととらえ、それこそまともにそう受け止める大衆は、少数者になっているのが現実だと思います。
そのことが、現在の弁護士増員問題や弁護士の経済的な窮状について、弁護士界を包囲している世論状況に大きく影響しているように思えます。およそ、権力を持たない、財力もない、多くの大衆にとって必要な弁護士は、どういう志の弁護士かはいうまでもありません。今、「競争」や「淘汰」という言葉とともに進行する政策が、その大衆にとって本来必要な弁護士を生かすものなのか、殺すものなのか、その肝心なところを国民が分かっていないという状況があると思います。
もちろん、その責任は、前記したように弁護士自身にもあるとは思います。
かつて話を聞いたある弁護士会長は、弁護士をしていた父親から、「金儲けをしたいならば、弁護士をやめてからにしろ」と怒られたといわれ、そのことがずっと胸にある、と言っていました。そうかと思えば、ある著名弁護士は「まず弁護士は株で儲けるのが成功法」と言っていました。ずっと前から、弁護士の精神には、さまざまなものがあったことも事実です。
これからの「競争」「淘汰」のなかで、生きる残ることを目指す、生き残るためにおカネになる仕事を目指した結果、残った弁護士が、本当に権力のない大衆が必要とした、宇都宮弁護士がいうような弁護士であるのか――社会自体が、原点にかえって、考え直すべきだと思います。
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