「改革」論調の中で生まれた弁護士の「自省」
弁護士界外の人間と話すと、予想以上にそうはとられていないのですが、弁護士という資格を大きく変えることになった司法改革にあって、当時の多くの弁護士は極めて自省的にこれを受けとめた現実がありました。
例えば、弁護士の体質批判のように言われた「敷居が高い」という話(そもそもこの言葉の本来の意味からは誤用の嫌いはありましたが)に対し、当時、話した多くの弁護士たちの反応は、「確かにこれまで不遜であった」とでもいうように、依頼者に対する態度や対応を変えるべき、といったものでした。
弁護士増員政策を受け容れた発想にも、同様のものが見られました。当初、潜在需要が強調され、増員弁護士によって、それが開拓される、顕在化するかもしれない、という期待感は界内にあり、その後に現れた非顕在化の現実化からすれば、相当の楽観論もあったことは確かです。
しかし、その一方で、弁護士の量産が、これまでにこの資格が体験したことがないサービス業としての競争や、そのための努力を求められるかもしれないことについても、大方の反応は、「確かにこれまではあぐらをかいてきた」とでもいうような、自省的な反応がありました。
そして、これらの受けとめ方は、この「改革」に当たって弁護士の意識改革を声高に唱えた会内の「改革」推進論者の発想とも一致していたようにみえました。増員政策を遂行するに当たって、強い抵抗が予想された弁護士会内に対し、自らの意識改革の必要性への自覚こそ、その実現性を高めると、おそらく彼らは考えていたのです。
その意味では、「改革」推進にとっての、最も有効な弁護士会(員)攻略法を、当時の会内推進論者は、分かっていて繰り出したともいえます。外部からの攻撃となれば、一致団結して抵抗するかもしれない体質を考えれば、あくまで主体的にそれを受け止めさせ、積極的に協力する形が得策である、という風に。
しかし、これらについては、今にしてみれば、疑問があります。過去に対する「反省」がすべて悪いわけではないにしても、その結果として導き出されたサービス業化や競争、増員という現実とのバランスは果たしてとれているのか、ということについてです。
とりわけ、気になるのは、これらの自省を迫る論法には、「市民」目線や感情が対峙されていたことです。利用者市民に大きな不満や不安があり、これらを解消しようとするベクトルの「改革」に背を向けることは、「市民」に背を向けることになるのだ、というように。弁護士界内外の推進論者の中には、ともに、それを当時の弁護士たちに突き付けるような論調が見られました(「弁護士の『改革』選択に対する疑問」 「弁護士会に対する『保身的参入規制』批判の先に登場したもの」)。
しかし、「改革」の蓋をあけてみて、前記したような弁護士の意識改革を伴った結果は、本当に市民に評価されているのでしょうか。よく見れば疑問がある「改革」を多くの弁護士にのませるための、いわば「方便」として繰り出された面をどうしても疑いたくなるのです。
もう一つ、奇妙な気持ちにさせる意識改革論調があります。弁護士増員政策が、前記したような当初の思惑通りの結果にならず、潜在需要が顕在化しないまま、資格の経済価値が下落した段階で、繰り出された「資格は一生の生活保証ではない」といった類の論調。
何を言っているのかは、もちろん分かります。「資格」を取ったからといって、そこから先、努力をしなくていいわけではない、ということ。それ自体は、理屈として正しいかもしれませんが、この時点で弁護士に向けられたこの論調は、有り体にいえば、「だから『改革』が失敗して、かつてのような経済環境でなくなっても、資格の経済価値が下落しても、弁護士は文句を言うな、文句を言わず努力しろ」という意味になったのです。
これも結果として、自省的に受けとめた人が沢山いるはずですし、もちろんそう受けとめて努力している人を批判するつもりは毛頭ありません。しかし、この論調をもってして、資格の経済的価値を下落させてしまった「改革」への評価に影響させられるのでしょうか。
そもそもかつての弁護士という資格の、経済的安定は、確かにこの資格の魅力であったことは、当時の現役法曹こそ分かっていてはずですし、社会にはいまだそれを期待する人もいます。いや、そういう期待があればこそ、新法曹養成への高い先行投資を強いられる現状で、そのリターンを期待できなくなっている弁護士業へ、見切りをつける志望者が現れたのではなかったのでしょうか。
もっと一般目線でいってしまえば、資格者が自らの経済的安定を主張することが責められるような話なのかも疑問です。しかし、どういうわけか弁護士の話となると、「努力もしないで」「あぐらをかいて」「ツケを利用者に回して」というような、すぐさま経済的保身と結び付け、批判的に捉えられるようにとれます。そして、思えば、これらも冒頭に書いた「改革」推進の中で、意識改革を迫る論調と、それを結果的にのむ形になった構図そのままのようにみえるのです。
かつて自省的な発想を伴って「改革」を受け容れた弁護士会に対して、推進派のある経済人は、「大人になった」と表現しました。それは抵抗勢力にならなかった、当時の弁護士会に対する、皮肉めいた賛辞でした。一理ある論調と、反省すべき過去に対する謙虚さによって、弁護士は本当は何を獲得し、何を失ったのか――。その現実を直視しなければ、本当の「改革」の評価にも辿りつかないはずです。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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例えば、弁護士の体質批判のように言われた「敷居が高い」という話(そもそもこの言葉の本来の意味からは誤用の嫌いはありましたが)に対し、当時、話した多くの弁護士たちの反応は、「確かにこれまで不遜であった」とでもいうように、依頼者に対する態度や対応を変えるべき、といったものでした。
弁護士増員政策を受け容れた発想にも、同様のものが見られました。当初、潜在需要が強調され、増員弁護士によって、それが開拓される、顕在化するかもしれない、という期待感は界内にあり、その後に現れた非顕在化の現実化からすれば、相当の楽観論もあったことは確かです。
しかし、その一方で、弁護士の量産が、これまでにこの資格が体験したことがないサービス業としての競争や、そのための努力を求められるかもしれないことについても、大方の反応は、「確かにこれまではあぐらをかいてきた」とでもいうような、自省的な反応がありました。
そして、これらの受けとめ方は、この「改革」に当たって弁護士の意識改革を声高に唱えた会内の「改革」推進論者の発想とも一致していたようにみえました。増員政策を遂行するに当たって、強い抵抗が予想された弁護士会内に対し、自らの意識改革の必要性への自覚こそ、その実現性を高めると、おそらく彼らは考えていたのです。
その意味では、「改革」推進にとっての、最も有効な弁護士会(員)攻略法を、当時の会内推進論者は、分かっていて繰り出したともいえます。外部からの攻撃となれば、一致団結して抵抗するかもしれない体質を考えれば、あくまで主体的にそれを受け止めさせ、積極的に協力する形が得策である、という風に。
しかし、これらについては、今にしてみれば、疑問があります。過去に対する「反省」がすべて悪いわけではないにしても、その結果として導き出されたサービス業化や競争、増員という現実とのバランスは果たしてとれているのか、ということについてです。
とりわけ、気になるのは、これらの自省を迫る論法には、「市民」目線や感情が対峙されていたことです。利用者市民に大きな不満や不安があり、これらを解消しようとするベクトルの「改革」に背を向けることは、「市民」に背を向けることになるのだ、というように。弁護士界内外の推進論者の中には、ともに、それを当時の弁護士たちに突き付けるような論調が見られました(「弁護士の『改革』選択に対する疑問」 「弁護士会に対する『保身的参入規制』批判の先に登場したもの」)。
しかし、「改革」の蓋をあけてみて、前記したような弁護士の意識改革を伴った結果は、本当に市民に評価されているのでしょうか。よく見れば疑問がある「改革」を多くの弁護士にのませるための、いわば「方便」として繰り出された面をどうしても疑いたくなるのです。
もう一つ、奇妙な気持ちにさせる意識改革論調があります。弁護士増員政策が、前記したような当初の思惑通りの結果にならず、潜在需要が顕在化しないまま、資格の経済価値が下落した段階で、繰り出された「資格は一生の生活保証ではない」といった類の論調。
何を言っているのかは、もちろん分かります。「資格」を取ったからといって、そこから先、努力をしなくていいわけではない、ということ。それ自体は、理屈として正しいかもしれませんが、この時点で弁護士に向けられたこの論調は、有り体にいえば、「だから『改革』が失敗して、かつてのような経済環境でなくなっても、資格の経済価値が下落しても、弁護士は文句を言うな、文句を言わず努力しろ」という意味になったのです。
これも結果として、自省的に受けとめた人が沢山いるはずですし、もちろんそう受けとめて努力している人を批判するつもりは毛頭ありません。しかし、この論調をもってして、資格の経済的価値を下落させてしまった「改革」への評価に影響させられるのでしょうか。
そもそもかつての弁護士という資格の、経済的安定は、確かにこの資格の魅力であったことは、当時の現役法曹こそ分かっていてはずですし、社会にはいまだそれを期待する人もいます。いや、そういう期待があればこそ、新法曹養成への高い先行投資を強いられる現状で、そのリターンを期待できなくなっている弁護士業へ、見切りをつける志望者が現れたのではなかったのでしょうか。
もっと一般目線でいってしまえば、資格者が自らの経済的安定を主張することが責められるような話なのかも疑問です。しかし、どういうわけか弁護士の話となると、「努力もしないで」「あぐらをかいて」「ツケを利用者に回して」というような、すぐさま経済的保身と結び付け、批判的に捉えられるようにとれます。そして、思えば、これらも冒頭に書いた「改革」推進の中で、意識改革を迫る論調と、それを結果的にのむ形になった構図そのままのようにみえるのです。
かつて自省的な発想を伴って「改革」を受け容れた弁護士会に対して、推進派のある経済人は、「大人になった」と表現しました。それは抵抗勢力にならなかった、当時の弁護士会に対する、皮肉めいた賛辞でした。一理ある論調と、反省すべき過去に対する謙虚さによって、弁護士は本当は何を獲得し、何を失ったのか――。その現実を直視しなければ、本当の「改革」の評価にも辿りつかないはずです。
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