「年収300万円」論が引きずる疑問
かつて法科大学院擁護・弁護士増員推進派が主催した集会で、ある弁護士が言い放ち物議を醸し、時を経て今でも時々、弁護士の中で話題になる、ある言葉があります(Schulze BLOG)。
「年収300万円でもいいという人を生み出すためにも、合格者増員が必要」
既に増員弁護士の数に見合う有償需要が顕在化せず、弁護士の経済的状況が下落するという「改革」の影響がはっきりした時点で言われたこの言葉は、あたかもその現実が「改革」の失敗を意味していないと、批判に対してクギを刺すような響きをもっていました。
しかし、ある意味、それ以上に、多くの弁護士には、率直に驚くべき改革推進派の現状認識として受けとめられたようでした。「年収300万円でもいい人」を待望する増員肯定論が、「失敗」の現実に対する、いかにも後付けの理屈(開き直り)であるようにとれたのと同時に、いくら何でもこの条件を、「改革」後の法曹志望者にのませようとする、のませられるという認識に、呆れる声が聞かれたのです。
これも度々引用される「成仏理論」と並び、「改革」推進論者から飛び出したいかにも現実と乖離した、ご都合主義的な「トンデモ」論のような、扱いされた言葉といっていいと思います(「弁護士の『低処遇』を正当化する発想と論法」)。
最近も、この言葉をめぐって、弁護士のこんなツイートがなされていました。
「私は、弁護士を増やして年収300万円でもいいという人を生み出すべきという人々に、常に問いかけていきたいのです。あなたの年収はいくらなのか、あなたは年収300万円で弁護士業をやっているのか、年収300万円でも弁護士を目指す人をどれだけ見つけて来られるのか、ということを」(深澤諭史弁護士のツイート)
まさに多くの弁護士が前記言葉に感じたはずのことであると同時に、志望者目線で考えても、「改革」の結果として、既に答えが出てしまっている問いかけといえます。しかし、このツイートには、こんな返信も付されていました。
「そもそも金儲けを特段気にしていたり金儲けを自慢したりする弁護士が一定数いることが問題です。依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような人が弁護士事務を行えるようにする必要があります」(「Imr @nglwer」氏の返信)
この返信者は「弁護士の不当な高額報酬には反対する立場」であることを明らかにしていますが、あえていえば、奇しくもこの返信内容は、冒頭の「年収300万円」論とつなにがるようにみえます。あたかも「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」弁護士こそ、「年収300万円でもいい」といえる弁護士であり、それを社会は期待している、というように。
そしてもっといってしまえば、このことは事業者性を犠牲にして公益性を追求する弁護士像をこの「改革」の先に描き込んだ、弁護士会内推進派の「あるべき論」にもつながるようにもとれるのです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。
結論から言えば、「金儲けを特段気にしていたり金儲けを自慢したりする弁護士が一定数いる」としても、深澤弁護士が提起している「300万円」論への疑問、その非現実性を越えて(目をつぶって)の、「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」弁護士を待望する無理は、やはり揺るがないといわなければなりません。
しかし、あえてこの返信者の言う「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」、そして、その結果として「年収300万円でもいい」という弁護士の登場が、本当にこの国で待望されているとしたならば、この「改革」には別の矛盾が生じていないでしょうか。本気で、それをこの国の理想の弁護士像に変えると言うのであるならば、なぜ、この「改革」で作られた新たな法曹養成制度は、より高い経済的条件の参入障壁を設けているのでしょうか。
どんなに純粋に、そうした覚悟を持つ弁護士がいたとしても、それをはねている、少なくとも旧試体制よりもはねている現実はどう考えればいいのでしょうか。唯一、その障壁から外れた機会となる予備試験をなぜ、本道を守るために目の敵にしているのでしょうか。あえていえば、「年収300万円」でも「依頼者利益」を優先し、自らの収入を省みなくても生活できる、という経済的条件を備えた、いわば富裕層しか越えられないハードルは、理想論のようにいわれる「あるべき弁護士」の登場の足を引っ張っていることにはどうしてならにないのでしょうか。
現実に立ち返れば、「依頼者の利益を確保し公益に貢献する」ことに積極的な弁護士の登場を社会が求めていたとしても、より一定の経済的余裕が確保・担保された方が、経済的に追い詰めた先の「勇者」を期待するよりも、その裾野は広がります。むしろ、「改革」の逆転した発想によって、そこは旧試体制よりも失われているものの方を私たちは気にすべきです。
「300万円論」「成仏理論」の論者も、事業者性の犠牲に在るべき姿を見出した当時の弁護士会内推進論者も、それが弁護士激増の先の姿として、本当にその無理に気付かず、また疑ってもいなかったのか――。本当の答えはもはや得られないだろう、その疑問に、どうしてもたどりついてしまうのです。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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「年収300万円でもいいという人を生み出すためにも、合格者増員が必要」
既に増員弁護士の数に見合う有償需要が顕在化せず、弁護士の経済的状況が下落するという「改革」の影響がはっきりした時点で言われたこの言葉は、あたかもその現実が「改革」の失敗を意味していないと、批判に対してクギを刺すような響きをもっていました。
しかし、ある意味、それ以上に、多くの弁護士には、率直に驚くべき改革推進派の現状認識として受けとめられたようでした。「年収300万円でもいい人」を待望する増員肯定論が、「失敗」の現実に対する、いかにも後付けの理屈(開き直り)であるようにとれたのと同時に、いくら何でもこの条件を、「改革」後の法曹志望者にのませようとする、のませられるという認識に、呆れる声が聞かれたのです。
これも度々引用される「成仏理論」と並び、「改革」推進論者から飛び出したいかにも現実と乖離した、ご都合主義的な「トンデモ」論のような、扱いされた言葉といっていいと思います(「弁護士の『低処遇』を正当化する発想と論法」)。
最近も、この言葉をめぐって、弁護士のこんなツイートがなされていました。
「私は、弁護士を増やして年収300万円でもいいという人を生み出すべきという人々に、常に問いかけていきたいのです。あなたの年収はいくらなのか、あなたは年収300万円で弁護士業をやっているのか、年収300万円でも弁護士を目指す人をどれだけ見つけて来られるのか、ということを」(深澤諭史弁護士のツイート)
まさに多くの弁護士が前記言葉に感じたはずのことであると同時に、志望者目線で考えても、「改革」の結果として、既に答えが出てしまっている問いかけといえます。しかし、このツイートには、こんな返信も付されていました。
「そもそも金儲けを特段気にしていたり金儲けを自慢したりする弁護士が一定数いることが問題です。依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような人が弁護士事務を行えるようにする必要があります」(「Imr @nglwer」氏の返信)
この返信者は「弁護士の不当な高額報酬には反対する立場」であることを明らかにしていますが、あえていえば、奇しくもこの返信内容は、冒頭の「年収300万円」論とつなにがるようにみえます。あたかも「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」弁護士こそ、「年収300万円でもいい」といえる弁護士であり、それを社会は期待している、というように。
そしてもっといってしまえば、このことは事業者性を犠牲にして公益性を追求する弁護士像をこの「改革」の先に描き込んだ、弁護士会内推進派の「あるべき論」にもつながるようにもとれるのです(「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。
結論から言えば、「金儲けを特段気にしていたり金儲けを自慢したりする弁護士が一定数いる」としても、深澤弁護士が提起している「300万円」論への疑問、その非現実性を越えて(目をつぶって)の、「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」弁護士を待望する無理は、やはり揺るがないといわなければなりません。
しかし、あえてこの返信者の言う「依頼者の利益を確保し公益に貢献すること自体が報酬と思えるような」、そして、その結果として「年収300万円でもいい」という弁護士の登場が、本当にこの国で待望されているとしたならば、この「改革」には別の矛盾が生じていないでしょうか。本気で、それをこの国の理想の弁護士像に変えると言うのであるならば、なぜ、この「改革」で作られた新たな法曹養成制度は、より高い経済的条件の参入障壁を設けているのでしょうか。
どんなに純粋に、そうした覚悟を持つ弁護士がいたとしても、それをはねている、少なくとも旧試体制よりもはねている現実はどう考えればいいのでしょうか。唯一、その障壁から外れた機会となる予備試験をなぜ、本道を守るために目の敵にしているのでしょうか。あえていえば、「年収300万円」でも「依頼者利益」を優先し、自らの収入を省みなくても生活できる、という経済的条件を備えた、いわば富裕層しか越えられないハードルは、理想論のようにいわれる「あるべき弁護士」の登場の足を引っ張っていることにはどうしてならにないのでしょうか。
現実に立ち返れば、「依頼者の利益を確保し公益に貢献する」ことに積極的な弁護士の登場を社会が求めていたとしても、より一定の経済的余裕が確保・担保された方が、経済的に追い詰めた先の「勇者」を期待するよりも、その裾野は広がります。むしろ、「改革」の逆転した発想によって、そこは旧試体制よりも失われているものの方を私たちは気にすべきです。
「300万円論」「成仏理論」の論者も、事業者性の犠牲に在るべき姿を見出した当時の弁護士会内推進論者も、それが弁護士激増の先の姿として、本当にその無理に気付かず、また疑ってもいなかったのか――。本当の答えはもはや得られないだろう、その疑問に、どうしてもたどりついてしまうのです。
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