利用された「儲けている」イメージ
今にして素朴にとらえると、法曹養成に関連する司法改革が実現する(できる)という発想には、大前提として弁護士は「儲けている」という捉え方が張り付いていたといえます。それは、時に「不当に」「過剰に」というニュアンスを込めて推進する側から社会に訴えられ、政策の正当性への賛同を求めた観もありました。
司法試験合格者3000人にしても、志望者に新たな負担を課す法科大学院制度というプロセスの導入しても、司法修習生への「給費制」を廃止しても成立する、もしくはこれに対する疑義や懸念をむしろ不当として排除しようとする理屈の中で、それは確かに存在していました。
弁護士を急激に激増させてもなんとかなる、しまいには弁護士の現実を分かっているはずの弁護士会主導層の人間までが「大丈夫」と太鼓判を押してしまった背景には、これまでも書いてきたように有償性・無償性を区別しない需要論の決定的な誤りがありました。しかし、ここの詳密な検証を省かせた発想には、弁護士の経済的能力への幻想と過信があったようにとれるのです。
弁護士の経済的能力が担保されていればこそ、養成プロセスでの志望者の先行投資が成立するイメージが当然強まります。そして、さらにある意味、罪深いと思えるのは、「自弁」という理屈の正当化を、これが後押ししたことです。
修習終了生の圧倒的多数がなるのは、裁判官や検察官ではなく、自ら「儲ける」民間事業者である弁護士であり、彼らについての修習については、前者と異なる、単なる「職業訓練」同様の、受益者負担としての「自弁」が正当化されるという理屈。そして、ここには、たとえこの理屈に立っても、弁護士は経済的に困らない、という描き方が張り付いていました(「弁護士資格『あぐら』論の中身と効果」)。
つまりは、養成課程での新たな志望者への負担は、現状の弁護士の経済状況、ましてや事業としての成立を脅かすものにはならない、というイメージになります。そして、とりわけ「給費制」廃止において、罪深いといえるのは、長年法曹界が大事にしてきたはずの、統一修習の理念につながる、法曹三者が等しく国費で養成されるという精神そのものを破壊したこと。というよりも、新制度導入と引き換えに、それを差し出したようにとれるところです。
ある弁護士は、これが「裁判官や検察官と、本質的に同じ仕事をしているのだ、という弁護士の矜持を打ち砕いた」としました。弁護士が公益そっちのけで儲けている仕事である、という描き方をするほどに、この三者を同一視させない理屈が現実的に後押しされてしまうのです。
「改革」論議にあって、こうした描き方に抵抗した弁護士たちもいましたが、当時の弁護士会主導層の多くの人の中には、その抵抗そのものが社会に「通用しない」とする論調が根強くあり、逆にそれが内向きに、会員弁護士たちに政策をのませるために利用された面も否定できません。しかも、会内の「改革」推進論者の中からも、弁護士の業者性を犠牲にした公益性追求を、「改革」後のあるべき弁護士像として掲げるに至っては、競争激化による影響など思いもよらない、まるっきり弁護士の経済的体力幻想にのっかっていた、というしかありません(「『給費制』から遠ざかる日弁連」「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。
しかし、以前も書いたことですが、社会に「通用しない」という見立てが本当に正しかったのかは疑問です。志望者にとって「給費制」は不当な優遇政策では決してなく、むしろ不可欠なものであったことは、この「改革」がむしろはっきりさせたというべきです(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。
そして、さらに言ってしまえば、この「改革」との関係で、弁護士の経済的体力を過剰に見積もった「改革」のツケが最終的に回って来るのは、弁護士利用者であるという現実があります。それは弁護士と利用者の経済的な関係だけでなく、前記した弁護士の意識の問題としても影響したというべきです(「Schulze BLOG」)。
弁護士が経済的に恵まれているとか、「儲けている」という社会的イメージは、もちろんイメージ化の努力が必要ないくらい、かつてから存在していたとはいえます。しかし、その一方で、この「改革」のツケが回ってくる危険性や現実を「改革」の旗を振る側は、「通用しない」論のもとに全く伝ようともしなかったのです。
そして、「改革」の結果として、その見立て違いがはっきりした現在においても、それがどうその失敗につながったのかについての、正しい評価がされていない現実があるといわなければならないのです。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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司法試験合格者3000人にしても、志望者に新たな負担を課す法科大学院制度というプロセスの導入しても、司法修習生への「給費制」を廃止しても成立する、もしくはこれに対する疑義や懸念をむしろ不当として排除しようとする理屈の中で、それは確かに存在していました。
弁護士を急激に激増させてもなんとかなる、しまいには弁護士の現実を分かっているはずの弁護士会主導層の人間までが「大丈夫」と太鼓判を押してしまった背景には、これまでも書いてきたように有償性・無償性を区別しない需要論の決定的な誤りがありました。しかし、ここの詳密な検証を省かせた発想には、弁護士の経済的能力への幻想と過信があったようにとれるのです。
弁護士の経済的能力が担保されていればこそ、養成プロセスでの志望者の先行投資が成立するイメージが当然強まります。そして、さらにある意味、罪深いと思えるのは、「自弁」という理屈の正当化を、これが後押ししたことです。
修習終了生の圧倒的多数がなるのは、裁判官や検察官ではなく、自ら「儲ける」民間事業者である弁護士であり、彼らについての修習については、前者と異なる、単なる「職業訓練」同様の、受益者負担としての「自弁」が正当化されるという理屈。そして、ここには、たとえこの理屈に立っても、弁護士は経済的に困らない、という描き方が張り付いていました(「弁護士資格『あぐら』論の中身と効果」)。
つまりは、養成課程での新たな志望者への負担は、現状の弁護士の経済状況、ましてや事業としての成立を脅かすものにはならない、というイメージになります。そして、とりわけ「給費制」廃止において、罪深いといえるのは、長年法曹界が大事にしてきたはずの、統一修習の理念につながる、法曹三者が等しく国費で養成されるという精神そのものを破壊したこと。というよりも、新制度導入と引き換えに、それを差し出したようにとれるところです。
ある弁護士は、これが「裁判官や検察官と、本質的に同じ仕事をしているのだ、という弁護士の矜持を打ち砕いた」としました。弁護士が公益そっちのけで儲けている仕事である、という描き方をするほどに、この三者を同一視させない理屈が現実的に後押しされてしまうのです。
「改革」論議にあって、こうした描き方に抵抗した弁護士たちもいましたが、当時の弁護士会主導層の多くの人の中には、その抵抗そのものが社会に「通用しない」とする論調が根強くあり、逆にそれが内向きに、会員弁護士たちに政策をのませるために利用された面も否定できません。しかも、会内の「改革」推進論者の中からも、弁護士の業者性を犠牲にした公益性追求を、「改革」後のあるべき弁護士像として掲げるに至っては、競争激化による影響など思いもよらない、まるっきり弁護士の経済的体力幻想にのっかっていた、というしかありません(「『給費制』から遠ざかる日弁連」「『事業者性』の犠牲と『公益性』への視線」)。
しかし、以前も書いたことですが、社会に「通用しない」という見立てが本当に正しかったのかは疑問です。志望者にとって「給費制」は不当な優遇政策では決してなく、むしろ不可欠なものであったことは、この「改革」がむしろはっきりさせたというべきです(「『給費制』復活と『通用しない』論」)。
そして、さらに言ってしまえば、この「改革」との関係で、弁護士の経済的体力を過剰に見積もった「改革」のツケが最終的に回って来るのは、弁護士利用者であるという現実があります。それは弁護士と利用者の経済的な関係だけでなく、前記した弁護士の意識の問題としても影響したというべきです(「Schulze BLOG」)。
弁護士が経済的に恵まれているとか、「儲けている」という社会的イメージは、もちろんイメージ化の努力が必要ないくらい、かつてから存在していたとはいえます。しかし、その一方で、この「改革」のツケが回ってくる危険性や現実を「改革」の旗を振る側は、「通用しない」論のもとに全く伝ようともしなかったのです。
そして、「改革」の結果として、その見立て違いがはっきりした現在においても、それがどうその失敗につながったのかについての、正しい評価がされていない現実があるといわなければならないのです。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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