「市民のため」という姿勢と虚実
日弁連主導層の中にずっと存在し続けてきた司法改革観、あるいは司法改革史観といえるものは、「市民のため」という言葉で彩られています。
例えば、同史観に貫かれた一冊といえる「司法改革――日弁連の長く困難なたたかい」(朝日新聞社)のあとがきで、著者で元日弁連事務総長の大川真郎弁護士は、いわゆる「平成の司法改革」は、日弁連の積極的な行動がなかったとしても、いずれ実現していたが、中身は「相当違ったものになったと思われる」と総括。日弁連が牽引車として大きな役割を果たしたからこそ、「『市民のための司法』がここまで実現した」と自賛しています。
しかし、率直な印象で言わして頂ければ、残念なことに司法改革の成果と日弁連の果たした役割に関する、こうした評価を業界内のその筋の方々以外からは、ほとんど耳にした記憶がありません。「改革」が提唱されてから20年以上が経過した現在、肝心の市民から、その成果について日弁連の役割についても、そうした評価がなされていないようにとれる現実は何を意味しているというべきでしょうか。
経済界が目指した規制緩和型の「改革」。「事前規制型から事後救済型へ」「自己責任」「自由競争」となど新自由主義的発想に基礎づけられた「改革」の方向に対し、司法を国民の側に取り戻し、市民に身近で役に立つ司法を確立する方向を対峙させたのが、当時、日弁連が提唱した「市民の司法型」とされた「市民のため『改革』」でした(「同床異夢的『改革』の結末」)。
しかし、現在において、業界内からも聞こえて来る現実的な評価は、大きな流れとしては、結果として後者は前者に取り込まれたのではないか、というものです。つまりは、弁護士激増政策や新法曹養成制度、あるいは紛争解決の窓口的な役割を担った法テラスにしても、利用者市民の実感としても、「市民のため」としての成果、役割よりも、むしろ自己責任や自由競争をより際立たせる結果となっている。その意味では、経済界のニーズにより引き付けることに成功したことを含め、前者の方向性が、後者よりも、しっかり「改革」の実をとっているのではないか、ということになるのです。
弁護士激増政策にしても、増えるほどに市民にとって弁護士が有り難い存在になる、といった単純な展開にはならなかった。数を増やせば、追い詰められるように、弁護士は食うために、弁護士がいない地方にも行き、これまで手掛けなかった案件も手掛けるようになり、競争に参加することでサービスの良化と低廉化が加速されるなどということにはならない。むしろ、弁護士は生存をかけてこれまで以上に採算性を追及し、(これまで手掛けてきたような弁護士までが)手を出せない案件が増え、逆に利用者市民は、食い詰めたベテラン弁護士までが、顧客の預かり金に手を付けることを心配しなくてはならなくなっている。
さらに、多様な人材の輩出を謳っていた法科大学院を中核とする新法曹養成制度にして、より「市民のため」に活動する人材を輩出する法曹養成へ転換されたという話はないし、むしろ経済的先行負担の存在や、資格取得後のより経済的安定志向の強まりから、企業内弁護士への傾斜は強まり、逆に最も市民の身近で活動してきたはずの、いわゆる「町(街)弁」が生きづらくなった現実まであります(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。
そして、ある意味、最も問題というべきなのは、冒頭の「市民のため」論を掲げてきた多くの方々が、この「改革」の結果を直視しようとしない、何がどう不味かったのか、どこで話がちがってしまったのかを全く総括せず、スル―しているようにとれるところです。むしろ、未だに一部の「成果」ととれる所だけを切り取り、弁護士にしても生存バイアス的にピックアップして、期待をつなげようとしているようにすら見えるといわなければなりません。
「この改革によって、弁護士・弁護士会が置かれることになった状況は、容易なものではない。しかし、いかにきびしい状況になろうとも、日弁連は、市民の期待にこたえ、『市民のための司法』の実現に向かって進みつづけるものと思われる」
冒頭の書籍のあとがきは、こんな力強い言葉で締めくくられています。彼らの思いとは裏腹の「改革」の現実と、それを直視しようとしない彼らの姿をどこか象徴しているような一文に見えてきます。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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例えば、同史観に貫かれた一冊といえる「司法改革――日弁連の長く困難なたたかい」(朝日新聞社)のあとがきで、著者で元日弁連事務総長の大川真郎弁護士は、いわゆる「平成の司法改革」は、日弁連の積極的な行動がなかったとしても、いずれ実現していたが、中身は「相当違ったものになったと思われる」と総括。日弁連が牽引車として大きな役割を果たしたからこそ、「『市民のための司法』がここまで実現した」と自賛しています。
しかし、率直な印象で言わして頂ければ、残念なことに司法改革の成果と日弁連の果たした役割に関する、こうした評価を業界内のその筋の方々以外からは、ほとんど耳にした記憶がありません。「改革」が提唱されてから20年以上が経過した現在、肝心の市民から、その成果について日弁連の役割についても、そうした評価がなされていないようにとれる現実は何を意味しているというべきでしょうか。
経済界が目指した規制緩和型の「改革」。「事前規制型から事後救済型へ」「自己責任」「自由競争」となど新自由主義的発想に基礎づけられた「改革」の方向に対し、司法を国民の側に取り戻し、市民に身近で役に立つ司法を確立する方向を対峙させたのが、当時、日弁連が提唱した「市民の司法型」とされた「市民のため『改革』」でした(「同床異夢的『改革』の結末」)。
しかし、現在において、業界内からも聞こえて来る現実的な評価は、大きな流れとしては、結果として後者は前者に取り込まれたのではないか、というものです。つまりは、弁護士激増政策や新法曹養成制度、あるいは紛争解決の窓口的な役割を担った法テラスにしても、利用者市民の実感としても、「市民のため」としての成果、役割よりも、むしろ自己責任や自由競争をより際立たせる結果となっている。その意味では、経済界のニーズにより引き付けることに成功したことを含め、前者の方向性が、後者よりも、しっかり「改革」の実をとっているのではないか、ということになるのです。
弁護士激増政策にしても、増えるほどに市民にとって弁護士が有り難い存在になる、といった単純な展開にはならなかった。数を増やせば、追い詰められるように、弁護士は食うために、弁護士がいない地方にも行き、これまで手掛けなかった案件も手掛けるようになり、競争に参加することでサービスの良化と低廉化が加速されるなどということにはならない。むしろ、弁護士は生存をかけてこれまで以上に採算性を追及し、(これまで手掛けてきたような弁護士までが)手を出せない案件が増え、逆に利用者市民は、食い詰めたベテラン弁護士までが、顧客の預かり金に手を付けることを心配しなくてはならなくなっている。
さらに、多様な人材の輩出を謳っていた法科大学院を中核とする新法曹養成制度にして、より「市民のため」に活動する人材を輩出する法曹養成へ転換されたという話はないし、むしろ経済的先行負担の存在や、資格取得後のより経済的安定志向の強まりから、企業内弁護士への傾斜は強まり、逆に最も市民の身近で活動してきたはずの、いわゆる「町(街)弁」が生きづらくなった現実まであります(「『町弁』衰退がいわれる『改革』の正体」)。
そして、ある意味、最も問題というべきなのは、冒頭の「市民のため」論を掲げてきた多くの方々が、この「改革」の結果を直視しようとしない、何がどう不味かったのか、どこで話がちがってしまったのかを全く総括せず、スル―しているようにとれるところです。むしろ、未だに一部の「成果」ととれる所だけを切り取り、弁護士にしても生存バイアス的にピックアップして、期待をつなげようとしているようにすら見えるといわなければなりません。
「この改革によって、弁護士・弁護士会が置かれることになった状況は、容易なものではない。しかし、いかにきびしい状況になろうとも、日弁連は、市民の期待にこたえ、『市民のための司法』の実現に向かって進みつづけるものと思われる」
冒頭の書籍のあとがきは、こんな力強い言葉で締めくくられています。彼らの思いとは裏腹の「改革」の現実と、それを直視しようとしない彼らの姿をどこか象徴しているような一文に見えてきます。
今、必要とされる弁護士についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4806
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