「左翼」「革新系」が傾斜したとされる「改革」
いわゆる「平成の司法改革」をめぐって、弁護士会内外でずっと言われ続けている言い方があります。「これを推進したのは、弁護士会内の左翼(あるいは革新系)である」というものです。この言い方は、基本的に肯定的なものではなく、むしろ「改革」の失敗の責任を問うような響きを持っています。つまり、弁護士増員政策を推進し、弁護士の経済的価値を下落させたのは、彼らではないか、と。
現実的には、「改革」路線に対して、弁護士会内の「左翼」「革新系」と位置付けられるような人々は分裂し、徹底的に反対の立場を貫いた方々もいます。この言い方をする人たちはそれをあえて無視しているのか、それとも日弁連内の多数のそうした弁護士たちが「改革」賛成に回ったことを強調したいのか、いずれにしても、断定的にこうした表現を使うのを耳にしてきました。
しかし、前記分裂の事情を踏まえていない点を除けば、少なくともこう評される、もしくはそう見えてしまう現実が、存在したことは否定できないように思えます。そして、そのことは、また会内でずっと言われ、今でも聞かれる、ある疑問の声につながっています。「なぜ、彼らはこの『改革』の旗を振る側に回ったのか」というものです。
それは、端的に言ってしまえば、とりわけ「改革」反対派からみると、「改革」の結果から冷静に考えるほどに、いわゆる推進派に回った「左翼」「革新系」とされる人々のスタンスが、本来、彼らがとるべきだったように思えるものと、一見矛盾するような、あるいはとてもやぶへびなもののようにとらえられるからです。
例えば、無理な弁護士増員政策を推進するほどに、弁護士のビジネス化は促進され、彼らの期待するような「活動派」の弁護士はいなくなることは容易に推察されるはずですし、会活動というものを考えたときも、弁護士が経済的余裕を失うことは、会務に積極的に参加する会員数に決定的に影響することは想像できます。さらにそれを、反対派がつとに指摘してきた弁護士(会)の「弱体化」ととらえれば、彼らこそそのことになぜ、敏感でなかったのか、ということになるのです。
まして、規制緩和・新自由主義的な性格がはっきりしていた「改革」にあって、いかに「対峙」するという立場を明らかにしたとはいえ、こともあろうに前記性格で推し進める政府・財界が一体となった「オールジャパン」体制の一翼を担うことに、何の抵抗や疑問はなかったのか。一つ間違えれば、「対峙」しているはずの相手を結果的にアシストしかねないことに、彼らこそ、なぜ、もっと警戒できなかったのか――。ある意味、案の定という結果になっている現実からすればなおさらのこと、疑問視されてもおかしくありません。
この「なぜ」について、これまでも長いこと、いろいろな業界内の声を聞いてきました。その中で、浮かび上がったのは、結局、彼らが大きく二つのことに引きずられたととれる現実です。一つは前記「対峙」の中で掲げた「市民のための『改革』」であり、もう一つは前記増員政策がもたらす、自らの味方が増えるとみる「人材確保論」というべきものです。
これまでも書いてきたことですが、事前規制を排除し、自己責任を徹底化する「改革」に対し、市民に身近で、利用しやすい司法をこの機会に目指す「改革」を、日弁連「改革」主導層は提示しました。そのための「大きな司法」であり、裁判官を含めた法曹の増員であり、さらに「司法官僚制の打破」=悲願の「法曹一元」の達成という発想に結び付きました(「同床異夢的『改革』の結末」)。
弁護士が増員されることは、それらの原動力となる人材が増え、同時に、いわば「同志」として活動する人材も増える、と、当時「人権派」と言われていた人も含め捉えていた現実があります。母数が増えれば、相対的に「活動派」も増えるのだ、と。前記「法曹一元」の現実化を考えていた人たちのなかには、数という意味では、給源の確保ということが、増員必要論に傾斜する根拠にもされました(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。
前記「なぜ」に関して、これらを素直に捉えれば、要するに彼らの決定的な見通しの甘さがあった、ということで括れてしまうのかもしれません。増員政策に乗っかって、旗を振っても、経済状況が変わることで、従来レベルの弁護士の活動の足を引っ張るものにはならないどころか、逆に増員弁護士から人材をより確保でき、それが「市民のため」をこの「改革」の中で、確固たるものにするだろう、という見通し。根本的な増員弁護士の生存に対する楽観論があったというふうに(「盲目的弁護士増員論の正体」)。
しかし、あえて付け加えれば、前記の「なぜ」に対する声の中には、それよりもやや厳しい見方も聞かれます。彼らは本当に分かってなかったのか、あるいはどこまで分かっていなかったのか、と。少なくとも、この「改革」が志望者や若手に、これまでにない負担を課すものになることを本当に想定していなかったのか。想定しながら、「オールジャパン」で旗を振ったとすれば、そこには楽観論のミスとか、あるいは善意の抗弁では片付かないものがあるのではないか、というものです。
これまで会ってきた「革新系」「左翼」とされる側の「改革」推進派の人の中にも、率直に自分たちの誤りを認める人もいなかったわけではありません。前記「見通し」の決定的な甘さがあったことを反省するニュアンスの声もありますし、さらには「規制緩和・新自由主義的路線はこの『改革』で決定的に実を取ることに成功したが、『市民のため』路線は、日弁連主導層が自賛するほどの実を取れたようには見れない」と、率直に語る人もいました。
ただ、あくまで印象で言わして頂ければ、少なくとも表だって、こういうことを口にしているのは、彼らの中では少数派です。多くは、間違ったと認めるわけでもなく、ましてこの「改革」にもっと批判的でよかったのではないか、という方向の発想もない。正しかった過去の選択の上を、これからも走るのみといっているようにとれる方々のようです(「『市民のため』という姿勢と虚実」)。
そのことが、「改革」が生んだ弁護士の現実を、よりいびつなものにしているように思えるのです。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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現実的には、「改革」路線に対して、弁護士会内の「左翼」「革新系」と位置付けられるような人々は分裂し、徹底的に反対の立場を貫いた方々もいます。この言い方をする人たちはそれをあえて無視しているのか、それとも日弁連内の多数のそうした弁護士たちが「改革」賛成に回ったことを強調したいのか、いずれにしても、断定的にこうした表現を使うのを耳にしてきました。
しかし、前記分裂の事情を踏まえていない点を除けば、少なくともこう評される、もしくはそう見えてしまう現実が、存在したことは否定できないように思えます。そして、そのことは、また会内でずっと言われ、今でも聞かれる、ある疑問の声につながっています。「なぜ、彼らはこの『改革』の旗を振る側に回ったのか」というものです。
それは、端的に言ってしまえば、とりわけ「改革」反対派からみると、「改革」の結果から冷静に考えるほどに、いわゆる推進派に回った「左翼」「革新系」とされる人々のスタンスが、本来、彼らがとるべきだったように思えるものと、一見矛盾するような、あるいはとてもやぶへびなもののようにとらえられるからです。
例えば、無理な弁護士増員政策を推進するほどに、弁護士のビジネス化は促進され、彼らの期待するような「活動派」の弁護士はいなくなることは容易に推察されるはずですし、会活動というものを考えたときも、弁護士が経済的余裕を失うことは、会務に積極的に参加する会員数に決定的に影響することは想像できます。さらにそれを、反対派がつとに指摘してきた弁護士(会)の「弱体化」ととらえれば、彼らこそそのことになぜ、敏感でなかったのか、ということになるのです。
まして、規制緩和・新自由主義的な性格がはっきりしていた「改革」にあって、いかに「対峙」するという立場を明らかにしたとはいえ、こともあろうに前記性格で推し進める政府・財界が一体となった「オールジャパン」体制の一翼を担うことに、何の抵抗や疑問はなかったのか。一つ間違えれば、「対峙」しているはずの相手を結果的にアシストしかねないことに、彼らこそ、なぜ、もっと警戒できなかったのか――。ある意味、案の定という結果になっている現実からすればなおさらのこと、疑問視されてもおかしくありません。
この「なぜ」について、これまでも長いこと、いろいろな業界内の声を聞いてきました。その中で、浮かび上がったのは、結局、彼らが大きく二つのことに引きずられたととれる現実です。一つは前記「対峙」の中で掲げた「市民のための『改革』」であり、もう一つは前記増員政策がもたらす、自らの味方が増えるとみる「人材確保論」というべきものです。
これまでも書いてきたことですが、事前規制を排除し、自己責任を徹底化する「改革」に対し、市民に身近で、利用しやすい司法をこの機会に目指す「改革」を、日弁連「改革」主導層は提示しました。そのための「大きな司法」であり、裁判官を含めた法曹の増員であり、さらに「司法官僚制の打破」=悲願の「法曹一元」の達成という発想に結び付きました(「同床異夢的『改革』の結末」)。
弁護士が増員されることは、それらの原動力となる人材が増え、同時に、いわば「同志」として活動する人材も増える、と、当時「人権派」と言われていた人も含め捉えていた現実があります。母数が増えれば、相対的に「活動派」も増えるのだ、と。前記「法曹一元」の現実化を考えていた人たちのなかには、数という意味では、給源の確保ということが、増員必要論に傾斜する根拠にもされました(「激増政策の中で消えた『法曹一元』」)。
前記「なぜ」に関して、これらを素直に捉えれば、要するに彼らの決定的な見通しの甘さがあった、ということで括れてしまうのかもしれません。増員政策に乗っかって、旗を振っても、経済状況が変わることで、従来レベルの弁護士の活動の足を引っ張るものにはならないどころか、逆に増員弁護士から人材をより確保でき、それが「市民のため」をこの「改革」の中で、確固たるものにするだろう、という見通し。根本的な増員弁護士の生存に対する楽観論があったというふうに(「盲目的弁護士増員論の正体」)。
しかし、あえて付け加えれば、前記の「なぜ」に対する声の中には、それよりもやや厳しい見方も聞かれます。彼らは本当に分かってなかったのか、あるいはどこまで分かっていなかったのか、と。少なくとも、この「改革」が志望者や若手に、これまでにない負担を課すものになることを本当に想定していなかったのか。想定しながら、「オールジャパン」で旗を振ったとすれば、そこには楽観論のミスとか、あるいは善意の抗弁では片付かないものがあるのではないか、というものです。
これまで会ってきた「革新系」「左翼」とされる側の「改革」推進派の人の中にも、率直に自分たちの誤りを認める人もいなかったわけではありません。前記「見通し」の決定的な甘さがあったことを反省するニュアンスの声もありますし、さらには「規制緩和・新自由主義的路線はこの『改革』で決定的に実を取ることに成功したが、『市民のため』路線は、日弁連主導層が自賛するほどの実を取れたようには見れない」と、率直に語る人もいました。
ただ、あくまで印象で言わして頂ければ、少なくとも表だって、こういうことを口にしているのは、彼らの中では少数派です。多くは、間違ったと認めるわけでもなく、ましてこの「改革」にもっと批判的でよかったのではないか、という方向の発想もない。正しかった過去の選択の上を、これからも走るのみといっているようにとれる方々のようです(「『市民のため』という姿勢と虚実」)。
そのことが、「改革」が生んだ弁護士の現実を、よりいびつなものにしているように思えるのです。
弁護士の競争による「淘汰」という考え方についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4800
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