「食えるか食えないか」論の射程
弁護士が「食えるか食えないか」というテーマをいまだに経済誌(週刊東洋経済9月9日号)が取り上げている現実に、改めて二つの意味でやや奇妙な気分に襲われました。一つは、延々とこのテーマが記事の切り口として、通用すると見ているメディア側の捉え方に対して。もう一つは、このテーマをこれまた延々と被せられている弁護士界に対して、です。
メディアの視点で考えれば、そもそもこのテーマには、「改革」がもたらした弁護士というエリートの経済的異変、あるいは「没落」という、意外性をともなった現実を取り上げるバリューへのヨミがべったりとくっついています。そのうえで、「食えている」あるいは「食えそうな」のは、どういった弁護士かといった、非常に漠とした基準の話が延々と繰り返されているのです。
そもそも単純な話、何をもって「食えている」と考えたり、考えなかったりするかは、個人の事情や思いによるとしか言えません。処遇としてどこまで遇されるのが妥当か(業務を存続する気持ちを維持できるか)という話なのか、それとも本当に「生活できるかできないか」(我慢にも限度がある)という話をしているのか――。
このテーマが話されるとき、これまでもどうもそれは人によって違うというか、そこが曖昧で、何やら後者のニュアンスで、「まだまだいける(はず)」という話が、前者の現実を抱える当事者の感覚とずれているのも、しばしば見てきた感があります。
正直、前記経済誌の記事の内容にも、目新しいものがない印象を持ちました。「食える」「食えない」両方の声がある弁護士界、弁護士急増による年収中央値の落ち込み、企業内弁護士の増加、「食える」「食えない」の二極化、「出世」を目指すならば大手か、中小事務所ならば専門性を磨くか、ワークライフバランスを重視する若手に企業内弁護士が定着化――。
このブログでも、このテーマとメディアの反応を取り上げていますが、疑問形で語られ続けるこのテーマをめぐる状況も、それに対するこちらが感じることも大きく変化していない。むしろそのこと自体にこだわってみたくなってくるのです(「『食えるか食えないか』というテーマの前提」 「弁護士『食えない』論をめぐる視点」)。
以前も書いた通り、このテーマには、言うまでもなく、被せられ得る異なる三つの視点があります。現職の弁護士の視点、これから弁護士になることを検討対象に入れている志望者の視点、そして、弁護士利用者の視点です。現職からすれば、このテーマは、当然「生き残り」や「生計維持」の問題であり、今後の事務所経営方針の転換や、場合によって転職まで視野に入るもので、志望者の立場からすれば、「職業選択」という問題に直結します。
ただ、メディアに限らず、このテーマの取り上げ方で、ある意味、一番そのスタンスが不透明になるのは、三番目の利用者の視点です。前記経済誌の立場からすれば、一番目、二番目の視点につながる現状レポートが、彼らと接する、あるいは恒常的に彼らを「使う」企業やビジネスマンにとって、参考になるとか有利になる材料を提供しているといった意味で、三番目の視点につなげている、ということになるのかもしれません。
しかし、このテーマが取り上げられる全体を俯瞰すると、およそ一般の利用者にとってどういう意味を持っているのかが、語られません。有り体にいえば、弁護士が「食えない」、あるいは「食えない」弁護士がこれまでになく増えると、一体、一般の利用者には、どんな影響が跳ね返ってくるのか、ということが、延々とこのテーマが取り上げられながら、(経済誌にそれを求めるかどうかは別として)相変わらず語られない現実が、一方で存在するのです。
「食えない」弁護士がどうなるのか、について、競争・淘汰を肯定する形になった「改革」の発想からすれば、それはすごすごと市場から退散する存在と描かれているようにもとれます。しかし、現実は違います。もちろん早々に転職する人もいるでしょうが、それが難関とされ、かつ、「改革」後は先行投資している資格業だけに、当然のことながらなんとかしようとするでしょう。
そのなんとかは、必ずしもこれまでの弁護士が提供してきたものを変わらず維持するものとはいえません。非採算案件を扱うことを減らしたり、止めたりせざるを得ない場合も考えられ、利用者からみたら、サービス内容が低下することも考えられますし、弁護士主導とならざるを得ない関係性の中では、残念なことに不祥事によるリスクも現実的には高まることも考えられる。しかし、少なくとも前者については、弁護士を責める話ではないし、後者については、例えば弁護士会に全責任を負わせてなんとかなるとみるのも、現実的でない。
弁護士が増えても、中には「食えている」人がいる、とか、「まだ弁護士は大丈夫」とか、「こういう分野に将来性がある」といくら語られても、これまで弁護士が一定の経済的余裕の中で支えてきた部分が、どうなってしまうのか(どうなってしまっているのか)については、延々と語られない現実が存在しているのです(「『手抜き』という当然の展開」)。
最近の傾向として、前記経済誌の記事にも若干触れられていますが、「意外と食えている」論ともいうべき弁護士の経済的回復と、経済的苦境論をまるで「誇張」のように言う論調が、台頭してきています。しかし、そうした現状認識が、どこまでの広さについて、どこまで現実を反映したものかもさることながら、本来「改革」の評価にも直結するといっていい前記利用者への本当の影響が語られていないことに、もっと目が向けられていいように思うのです。
弁護士の経済的な窮状の現実についてお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4818
司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

にほんブログ村

にほんブログ村


メディアの視点で考えれば、そもそもこのテーマには、「改革」がもたらした弁護士というエリートの経済的異変、あるいは「没落」という、意外性をともなった現実を取り上げるバリューへのヨミがべったりとくっついています。そのうえで、「食えている」あるいは「食えそうな」のは、どういった弁護士かといった、非常に漠とした基準の話が延々と繰り返されているのです。
そもそも単純な話、何をもって「食えている」と考えたり、考えなかったりするかは、個人の事情や思いによるとしか言えません。処遇としてどこまで遇されるのが妥当か(業務を存続する気持ちを維持できるか)という話なのか、それとも本当に「生活できるかできないか」(我慢にも限度がある)という話をしているのか――。
このテーマが話されるとき、これまでもどうもそれは人によって違うというか、そこが曖昧で、何やら後者のニュアンスで、「まだまだいける(はず)」という話が、前者の現実を抱える当事者の感覚とずれているのも、しばしば見てきた感があります。
正直、前記経済誌の記事の内容にも、目新しいものがない印象を持ちました。「食える」「食えない」両方の声がある弁護士界、弁護士急増による年収中央値の落ち込み、企業内弁護士の増加、「食える」「食えない」の二極化、「出世」を目指すならば大手か、中小事務所ならば専門性を磨くか、ワークライフバランスを重視する若手に企業内弁護士が定着化――。
このブログでも、このテーマとメディアの反応を取り上げていますが、疑問形で語られ続けるこのテーマをめぐる状況も、それに対するこちらが感じることも大きく変化していない。むしろそのこと自体にこだわってみたくなってくるのです(「『食えるか食えないか』というテーマの前提」 「弁護士『食えない』論をめぐる視点」)。
以前も書いた通り、このテーマには、言うまでもなく、被せられ得る異なる三つの視点があります。現職の弁護士の視点、これから弁護士になることを検討対象に入れている志望者の視点、そして、弁護士利用者の視点です。現職からすれば、このテーマは、当然「生き残り」や「生計維持」の問題であり、今後の事務所経営方針の転換や、場合によって転職まで視野に入るもので、志望者の立場からすれば、「職業選択」という問題に直結します。
ただ、メディアに限らず、このテーマの取り上げ方で、ある意味、一番そのスタンスが不透明になるのは、三番目の利用者の視点です。前記経済誌の立場からすれば、一番目、二番目の視点につながる現状レポートが、彼らと接する、あるいは恒常的に彼らを「使う」企業やビジネスマンにとって、参考になるとか有利になる材料を提供しているといった意味で、三番目の視点につなげている、ということになるのかもしれません。
しかし、このテーマが取り上げられる全体を俯瞰すると、およそ一般の利用者にとってどういう意味を持っているのかが、語られません。有り体にいえば、弁護士が「食えない」、あるいは「食えない」弁護士がこれまでになく増えると、一体、一般の利用者には、どんな影響が跳ね返ってくるのか、ということが、延々とこのテーマが取り上げられながら、(経済誌にそれを求めるかどうかは別として)相変わらず語られない現実が、一方で存在するのです。
「食えない」弁護士がどうなるのか、について、競争・淘汰を肯定する形になった「改革」の発想からすれば、それはすごすごと市場から退散する存在と描かれているようにもとれます。しかし、現実は違います。もちろん早々に転職する人もいるでしょうが、それが難関とされ、かつ、「改革」後は先行投資している資格業だけに、当然のことながらなんとかしようとするでしょう。
そのなんとかは、必ずしもこれまでの弁護士が提供してきたものを変わらず維持するものとはいえません。非採算案件を扱うことを減らしたり、止めたりせざるを得ない場合も考えられ、利用者からみたら、サービス内容が低下することも考えられますし、弁護士主導とならざるを得ない関係性の中では、残念なことに不祥事によるリスクも現実的には高まることも考えられる。しかし、少なくとも前者については、弁護士を責める話ではないし、後者については、例えば弁護士会に全責任を負わせてなんとかなるとみるのも、現実的でない。
弁護士が増えても、中には「食えている」人がいる、とか、「まだ弁護士は大丈夫」とか、「こういう分野に将来性がある」といくら語られても、これまで弁護士が一定の経済的余裕の中で支えてきた部分が、どうなってしまうのか(どうなってしまっているのか)については、延々と語られない現実が存在しているのです(「『手抜き』という当然の展開」)。
最近の傾向として、前記経済誌の記事にも若干触れられていますが、「意外と食えている」論ともいうべき弁護士の経済的回復と、経済的苦境論をまるで「誇張」のように言う論調が、台頭してきています。しかし、そうした現状認識が、どこまでの広さについて、どこまで現実を反映したものかもさることながら、本来「改革」の評価にも直結するといっていい前記利用者への本当の影響が語られていないことに、もっと目が向けられていいように思うのです。
弁護士の経済的な窮状の現実についてお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4818
司法改革に疑問を持っている人々ための無料メールマガジン「どうなの司法改革通信」配信中!無料読者登録よろしくお願いします。http://www.mag2.com/m/0001296634.html

にほんブログ村

にほんブログ村


スポンサーサイト