弁護士の「負の多様性」と責任転嫁
司法改革がもたらした弁護士の「多様性」について、皮肉めいた言い方を今でも異口同音に聞くことがあります。実は、利用者市民にとって、有り難くない「多様性」が実現したのではないか、と。
あえて説明するまでもないかもしれませんが、弁護士が増員されたことで市民のニーズにこたえ得る様々な弁護士が誕生している、という人はいるが、一方で質や能力のレベルについても、多様な弁護士が生まれてしまったのではないか、と。さらにいえば、弁護士の中にかつてないような経済的な格差に生まれ、そのバラツキという意味でも「多様」という言葉を使う人がいます(「弁護士の多様性を支えるもの」)。
ただ、「改革」を推進した側が、このいわば「負の多様性」について、どう評価しているかは、今もって明確になっているといえません。前記いわば「正の多様性」のメリットばかりが強調され、「負」については、あたかも利用者市民に影響がないことのようにスルーしている観もあります。
「想定外」であったという部分を認める人は、もちろんいます。「改革」が弁護士にとってここまでの経済的な打撃になることも、質・能力レベルという意味では、当初の司法試験合格者年間3000人方針を断念しなければならないほど、新法曹養成制度が実績を示し切れないことも、「改革」当初に予定していたことではありません。
ただ、「想定外」とは言い切れないものもあったといわなければなりません。つまり、端的に言えば、この「負の多様性」の部分について、「改革」はそもそも利用者に責任を転嫁する立場だったともいえるからです。弁護士が増えて、その放出された人材が、競争と淘汰によって質が確保されるというのであれば、適正な選択が利用者によって実施されることが前提となり、当然、その選択の責任は利用者自身が負う、ということになるからです。
「改革」が弁護士の自由競争を前提とした以上、その自己責任は利用者が受け止めなければならない、とか、受け止めるしかない、ということが今でも時々言われます。だとすれば、「負の多様性」は望ましいことではなくても、少なくともその実害に関しては、利用者の努力で回避できる(回避すべき)ことなので、「正の多様性」こそ、より「改革」の価値として評価すべきということにもなります。
しかし、こうした捉え方には、二つの意味で大きな違和感を覚えざるを得ません。一つは、この「改革」に当たって、そのことに利用者が自覚的であったのか、さらにいうとそのことに「改革」がこだわっていたようにみえないこと。そして、もう一つは、この弁護士の適正な選択にかかる責任の、利用者への転嫁は、現実的に彼らにとって酷なものであること、です。
これまでも書いてきたことですが、弁護士と利用者市民の関係性には、情報の非対称性という問題が立ちはだかります。いわばそれを乗り越えなければ、その先の競争も淘汰も、適正には招来しない。少なくとも利用者市民にとって有り難いとごろか、実害を伴いかねないものとなります。
その解消のために、つとに言われてきたのが、「情報公開」です。市民が正しく選択される材料が与えられればよいのだと。さらには、それがあたかも利用者側の経験や意識、あるいは慣れのようなもので、なんとかなるのであって、そこまでは、利用者市民が、それこそ自己責任としてやるべき、という話がくっついています。
しかし、実際はそれこそホームページ上で公開されるプロフィールや実績的な情報、会った時の印象などをもってして、弁護士主導で進められる専門的な説明や手続きの適正さの比較と選別が、利用者市民に成し得るなどとは、当の弁護士をして心から思っている人はほとんどいないはずです。
また、ほとんどといっていい依頼者市民と弁護士との一回性の関係にあって、弁護士の選別の経験や慣れが活かされるという場面は、少なくとも一般市民については極めて限定的というべきです。しかも、前記情報公開といっても、第三者的な評価機関によるものでは一切なく、あくまでこれまた弁護士主導の自己申告といっていいものです。何をどこまで頼りにしていいかも分からない代物と言えます。
こういう関係性であればこそ、利用者市民にとって一番有り難いのは、限りなく信用できる資格による質や能力保証の担保です。逆にいえば、選択の困難性が高いからこそ、資格による質の担保に意味があるといえます。おそらく司法試験や修習という、厳格な選抜過程を経ているということで、資格に対して一定の質を社会が期待し、信頼してきたのは当然、と考えれば、「改革」による「負の多様性」と自己責任が回って来るのは、相当に利用者市民の認識とはずれていても当然というべきです。
「改革」推進論者は、あくまで「負の多様性」が生まれていたとしても、「正の多様性」のメリットが上回っていると、強弁し続けるのかもしれません。しかし、市民も覚悟すべき、自覚すべきと聞える、弁護士選択をめぐる論調には、想定外ともいえる「負の多様性」を生んでしまっている「改革」の、市民にとっての唐突さと責任転嫁の響きをどうしても感じとってしまうのです。
弁護士の質の低下についてご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4784
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ただ、「改革」を推進した側が、このいわば「負の多様性」について、どう評価しているかは、今もって明確になっているといえません。前記いわば「正の多様性」のメリットばかりが強調され、「負」については、あたかも利用者市民に影響がないことのようにスルーしている観もあります。
「想定外」であったという部分を認める人は、もちろんいます。「改革」が弁護士にとってここまでの経済的な打撃になることも、質・能力レベルという意味では、当初の司法試験合格者年間3000人方針を断念しなければならないほど、新法曹養成制度が実績を示し切れないことも、「改革」当初に予定していたことではありません。
ただ、「想定外」とは言い切れないものもあったといわなければなりません。つまり、端的に言えば、この「負の多様性」の部分について、「改革」はそもそも利用者に責任を転嫁する立場だったともいえるからです。弁護士が増えて、その放出された人材が、競争と淘汰によって質が確保されるというのであれば、適正な選択が利用者によって実施されることが前提となり、当然、その選択の責任は利用者自身が負う、ということになるからです。
「改革」が弁護士の自由競争を前提とした以上、その自己責任は利用者が受け止めなければならない、とか、受け止めるしかない、ということが今でも時々言われます。だとすれば、「負の多様性」は望ましいことではなくても、少なくともその実害に関しては、利用者の努力で回避できる(回避すべき)ことなので、「正の多様性」こそ、より「改革」の価値として評価すべきということにもなります。
しかし、こうした捉え方には、二つの意味で大きな違和感を覚えざるを得ません。一つは、この「改革」に当たって、そのことに利用者が自覚的であったのか、さらにいうとそのことに「改革」がこだわっていたようにみえないこと。そして、もう一つは、この弁護士の適正な選択にかかる責任の、利用者への転嫁は、現実的に彼らにとって酷なものであること、です。
これまでも書いてきたことですが、弁護士と利用者市民の関係性には、情報の非対称性という問題が立ちはだかります。いわばそれを乗り越えなければ、その先の競争も淘汰も、適正には招来しない。少なくとも利用者市民にとって有り難いとごろか、実害を伴いかねないものとなります。
その解消のために、つとに言われてきたのが、「情報公開」です。市民が正しく選択される材料が与えられればよいのだと。さらには、それがあたかも利用者側の経験や意識、あるいは慣れのようなもので、なんとかなるのであって、そこまでは、利用者市民が、それこそ自己責任としてやるべき、という話がくっついています。
しかし、実際はそれこそホームページ上で公開されるプロフィールや実績的な情報、会った時の印象などをもってして、弁護士主導で進められる専門的な説明や手続きの適正さの比較と選別が、利用者市民に成し得るなどとは、当の弁護士をして心から思っている人はほとんどいないはずです。
また、ほとんどといっていい依頼者市民と弁護士との一回性の関係にあって、弁護士の選別の経験や慣れが活かされるという場面は、少なくとも一般市民については極めて限定的というべきです。しかも、前記情報公開といっても、第三者的な評価機関によるものでは一切なく、あくまでこれまた弁護士主導の自己申告といっていいものです。何をどこまで頼りにしていいかも分からない代物と言えます。
こういう関係性であればこそ、利用者市民にとって一番有り難いのは、限りなく信用できる資格による質や能力保証の担保です。逆にいえば、選択の困難性が高いからこそ、資格による質の担保に意味があるといえます。おそらく司法試験や修習という、厳格な選抜過程を経ているということで、資格に対して一定の質を社会が期待し、信頼してきたのは当然、と考えれば、「改革」による「負の多様性」と自己責任が回って来るのは、相当に利用者市民の認識とはずれていても当然というべきです。
「改革」推進論者は、あくまで「負の多様性」が生まれていたとしても、「正の多様性」のメリットが上回っていると、強弁し続けるのかもしれません。しかし、市民も覚悟すべき、自覚すべきと聞える、弁護士選択をめぐる論調には、想定外ともいえる「負の多様性」を生んでしまっている「改革」の、市民にとっての唐突さと責任転嫁の響きをどうしても感じとってしまうのです。
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