「市民の理解」がはらむ問題
弁護士会の対外的な意見表明の中で、しばしば登場してきた「市民の理解」は、現実的には二つの意味をはらんできたということができます。一つは、弁護士・会の存在意義や役割など、その等身大の現実について、より市民の理解を深め、周知するというベクトル。そして、もう一つは、逆に市民の理解から逆算して、弁護士・会自身が変わる必要を模索するというベクトルです。
こういうことを書けば、もちろん弁護士会の主導層や個々の弁護士の方々の中にも、そのどちらのベクトル云々ではなく、当然にそのどちらも重要といった反応が返って来ると思います。
例えば、しばしば個々の弁護士活動をめぐり、批判的な世論の矛先が向かう刑事弁護については、弁護士会も前者の立場から意見表明することになります。(東京弁護士会会長「弁護士が果たす役割について市民の理解を求めるとともに、 弁護活動の自由の保障の確保に関する声明」)。
一方、弁護士自治に関して、日弁連は2001年に、会内に反対意見もありながら多数によって採択した総会決議(「市民の理解と支持のもとに弁護士自治を維持・発展させる決議」)では、従来から主張してきた前者の立場からの意義強調に加えて、それが「市民の理解と支持」のうえに成り立つとして、「市民の意見や批判に対しては謙虚に耳を傾ける」と、後者の立場からの視点を加える形になりました。そして、それは逆に多数派市民の意見に抗しても、時に貫かれる必要もある弁護士・会の立場に重大な足枷になるとする、批判や懸念を会内に生むことにもなりました(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」)。
しかし、今、改めて司法改革後の弁護士の状況と、「市民の理解」をめぐる前記二つのベクトルを捉え直すと、前者の立場より後者に傾斜する弁護士会的な発想に、個々の弁護士は、やはりより不安感を持っているようにとれるのです。例えば、それが最も顕著なのは、弁護士の公共的な役割の強調と、社会にある無償性への要求に対して、果たして弁護士会は個々の弁護士の経済的事情や、事業者として当然必要となる採算性を踏まえ、むしろ前者の立場で理解を求め、きちっと社会の要求にクギを刺しているのか、という批判的に目線です。
改めていうまでもないことかもしれませんが、当の市民の目線からすれば、「市民の理解」を掲げた弁護士・会に対しては、後者の立場の達成度での評価が優先される形になって当然です。個々の活動においても、それが無理をはらんだものでも、様々な要求にこたえるものが良い弁護士で、答えられなければ悪い弁護士になる可能性がある、ということです。
このことに関しては、採算性を度外視して弁護士が無理をして無償性のものに首を突っ込んで頑張ったあげく、結局、持ちこたえられなくなり、撤退した場合、批判の対象になる、といったことを嘆く声が界内にはあります。無償性・有償性を無視して、「ニーズはある」と増員政策で突っ込んだ「改革」の先で、こうした現実も生じているのです。
そして、こうした現実に対する弁護士会の姿勢に対して、ネット上を含めた個々の弁護士の批判的な声を集めると、大略次のようなものに集約されるようにとれます。弁護士会主導層が「改革」路線に乗っかって、弁護士の現実を無視し、市民に対して体面的な姿勢(有り体にいえば、いい顔)をし過ぎているというもの。同時に、前者の立場に立った、有償サービスで成り立っている弁護士業の現実や、非採算部門の限界を伝える、弁護士会のアナウンスが決定的に不足しているというもの。弁護士会のそうした立場からは、距離を置かなければ、やっていかれないというもの――。
「我々は商店街の店の一つなんよ。不採算業務や会務にウツツを抜かし、空疎な絵空事ばかり語るひとはできん。金を稼いで飯を食わんといけんのじゃ」(ピピピーッ @O59K2dPQH59QEJx)
「(需要を察して)タダで提供、という選択をする場合、撤退時に、供給側が無理をしてても恨まれる(=赤字ローカル線の法則)ので、どうしてもやる場合は、・そうならないかを見極める、・終わり方を考えること、が重要だと思っています。弁護士会はそのあたりで失敗している」
「そういう場合にもやらにゃならんことがあるわけですが、弁護士という職業がこれだけ手弁当&莫大な弁護士会費を費消して尽くしながら、ここまで世間の評判が悪い理由は、このあたりなのかな、と思っています。弁護士会はよく『市民の理解』と言うけれど、ならばそこは考える必要があるのでは」(向原総合法律事務所 弁護士向原 @harrier0516osk)
「市民の理解」という言葉が、ある種観念的に会員に理解されて、それでもそれほど今日のように、その問題性に会員が敏感に反応しなく済んだのは、一重に「改革」が破壊した弁護士の経済的安定がかつては存在していたから、です。逆に言えば、こうなってしまった以上、弁護士会主導層は、以前のような発想で対応することはできません。そして、それはもはや「市民のため」にも、と言うべきなのです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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こういうことを書けば、もちろん弁護士会の主導層や個々の弁護士の方々の中にも、そのどちらのベクトル云々ではなく、当然にそのどちらも重要といった反応が返って来ると思います。
例えば、しばしば個々の弁護士活動をめぐり、批判的な世論の矛先が向かう刑事弁護については、弁護士会も前者の立場から意見表明することになります。(東京弁護士会会長「弁護士が果たす役割について市民の理解を求めるとともに、 弁護活動の自由の保障の確保に関する声明」)。
一方、弁護士自治に関して、日弁連は2001年に、会内に反対意見もありながら多数によって採択した総会決議(「市民の理解と支持のもとに弁護士自治を維持・発展させる決議」)では、従来から主張してきた前者の立場からの意義強調に加えて、それが「市民の理解と支持」のうえに成り立つとして、「市民の意見や批判に対しては謙虚に耳を傾ける」と、後者の立場からの視点を加える形になりました。そして、それは逆に多数派市民の意見に抗しても、時に貫かれる必要もある弁護士・会の立場に重大な足枷になるとする、批判や懸念を会内に生むことにもなりました(「『多数派市民』と自治をめぐる弁護士会のスタンス」)。
しかし、今、改めて司法改革後の弁護士の状況と、「市民の理解」をめぐる前記二つのベクトルを捉え直すと、前者の立場より後者に傾斜する弁護士会的な発想に、個々の弁護士は、やはりより不安感を持っているようにとれるのです。例えば、それが最も顕著なのは、弁護士の公共的な役割の強調と、社会にある無償性への要求に対して、果たして弁護士会は個々の弁護士の経済的事情や、事業者として当然必要となる採算性を踏まえ、むしろ前者の立場で理解を求め、きちっと社会の要求にクギを刺しているのか、という批判的に目線です。
改めていうまでもないことかもしれませんが、当の市民の目線からすれば、「市民の理解」を掲げた弁護士・会に対しては、後者の立場の達成度での評価が優先される形になって当然です。個々の活動においても、それが無理をはらんだものでも、様々な要求にこたえるものが良い弁護士で、答えられなければ悪い弁護士になる可能性がある、ということです。
このことに関しては、採算性を度外視して弁護士が無理をして無償性のものに首を突っ込んで頑張ったあげく、結局、持ちこたえられなくなり、撤退した場合、批判の対象になる、といったことを嘆く声が界内にはあります。無償性・有償性を無視して、「ニーズはある」と増員政策で突っ込んだ「改革」の先で、こうした現実も生じているのです。
そして、こうした現実に対する弁護士会の姿勢に対して、ネット上を含めた個々の弁護士の批判的な声を集めると、大略次のようなものに集約されるようにとれます。弁護士会主導層が「改革」路線に乗っかって、弁護士の現実を無視し、市民に対して体面的な姿勢(有り体にいえば、いい顔)をし過ぎているというもの。同時に、前者の立場に立った、有償サービスで成り立っている弁護士業の現実や、非採算部門の限界を伝える、弁護士会のアナウンスが決定的に不足しているというもの。弁護士会のそうした立場からは、距離を置かなければ、やっていかれないというもの――。
「我々は商店街の店の一つなんよ。不採算業務や会務にウツツを抜かし、空疎な絵空事ばかり語るひとはできん。金を稼いで飯を食わんといけんのじゃ」(ピピピーッ @O59K2dPQH59QEJx)
「(需要を察して)タダで提供、という選択をする場合、撤退時に、供給側が無理をしてても恨まれる(=赤字ローカル線の法則)ので、どうしてもやる場合は、・そうならないかを見極める、・終わり方を考えること、が重要だと思っています。弁護士会はそのあたりで失敗している」
「そういう場合にもやらにゃならんことがあるわけですが、弁護士という職業がこれだけ手弁当&莫大な弁護士会費を費消して尽くしながら、ここまで世間の評判が悪い理由は、このあたりなのかな、と思っています。弁護士会はよく『市民の理解』と言うけれど、ならばそこは考える必要があるのでは」(向原総合法律事務所 弁護士向原 @harrier0516osk)
「市民の理解」という言葉が、ある種観念的に会員に理解されて、それでもそれほど今日のように、その問題性に会員が敏感に反応しなく済んだのは、一重に「改革」が破壊した弁護士の経済的安定がかつては存在していたから、です。逆に言えば、こうなってしまった以上、弁護士会主導層は、以前のような発想で対応することはできません。そして、それはもはや「市民のため」にも、と言うべきなのです。
弁護士自治と弁護士会の強制加入制度の必要性について、ご意見をお聞かせ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4794
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