弁護士会的「市民」像
弁護士会が描く「市民」像というテーマが、これまでも弁護士会会員の間で、取り沙汰されてきました。そして、この文脈で取り上げられる多くの場合、それは、批判的な意味を持っています。要は、そこには現実の、いわば等身大の市民との間に乖離がある、というニュアンスです。
どういうことかといえば、弁護士会が掲げる政策方針や提案の基本に、自らのそれに都合がいい「市民」像が設定され、あたかもその要求に忖度するような形にしているが、現実の市民とは乖離しているため、いわば当然にズレ、誤算が生じているのではないか、逆にズレ、誤算の根本的原因が、まさにそこにあるのではないか、という指摘になります。
その中身は、あえて大きく分類すれば、二つに分けられます。一つは市民の意識や志向を弁護士会側に都合良く、「高く」(高い、低いで表現するのは若干語弊がありますが)、彼らにとっての理想的なものとして、描く傾向。市民は自立的で、常に行動は主体的であって、弁護士会が掲げる問題提起や司法の現実に対し、強い関心を抱き得る存在である、と。死刑廃止や人権侵害問題、法曹一元などにも、必ずや目を向け、賛同し得る「市民」ということになります。
もう一つは、前記と被る部分もありますが、必ずや弁護士・会を必要とする存在、もしくは弁護士会の活動に必ずやエールを送ってくれる存在として、「市民」をとらえる傾向。市民のなかに(条件を満たせば)、基本的に弁護士・会を必要とする欲求が存在し、場合によっては、おカネを投入する用意も、意識も十分に存在しているととらえたり、弁護士自治もその存在意義を理解して、必ずや賛同してくれる存在とみているようにとれます(「『市民の理解』がはらむ問題」)。
「し得る」とか「必ずや」とか「条件を満たせば」といった、可能性に期待するような言葉を敢えて挟んでいるのは、弁護士会のスタンスの特徴として、もし、現実的な乖離がそこに現在、存在しているとしても、それそのものを「課題」として、「なんとかしなければならないもの」、あるいは弁護士側の「努力次第で現実化するもの」ととらえがちである、ということがまた、弁護士会的なスタンスととれるからです。
結局は、「市民のため」「市民の理解」ということを掲げながら、等身大の市民ではなく、あくまで彼らにとっての、在るべき論が介在しているような「理想像」から、逆算されているようにみえてしまう、ということになります。
実は、「平成の司法改革」そのものにも、そういうニュアンスが読みとれます。司法制度改革審議会意見書の中で、「国民」が次のように描かれている箇所があります。
「国民は、司法の運営に主体的・有意的に参加し、プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていくことが求められる。21世紀のこの国の発展を支える基盤は、究極において、統治主体・権利主体である我々国民一人ひとりの創造的な活力と自由な個性の展開、そして他者への共感に深く根ざした責任感をおいて他にないのであり、そのことは司法との関係でも妥当することを銘記すべきであろう」
「司法の運営に主体的・有意的に参加」したり、「プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていく」国民は、もちろん現実の国民の意志から逆算されたものではなく、あくまで「改革」者側の、在るべき論に基づく願望といってもいいものです。「統治主体・権利主体である」国民という括りは正しくても、司法の信頼のうえに税金を投入して委託している側が、脱却すべき「統治客体意識」の持ち主とされることには、納得いかない国民がいてもおかしくありません。
「改革」が理想を前提に語って何が悪いという人もいるかもしれません。仮に理想としてそれを提示されても、等身大の国民から捉えなければ、その理想を現実化するには本当は何が必要なのかも見誤ります。まさに、弁護士の需要と弁護士激増政策にしても、裁判員制度にしても「改革」の失敗の根っこには、そのことが横たわっているというべきです。
弁護士会の掲げる「市民」像と現実の市民との隔たりにしても、そのしわ寄せは、結局、等身大の市民と向き合う個々の弁護士が被ることになります。そして、「市民のため」の「改革」と言いながら、それは、弁護士会が理想とした「市民」ではない市民にとっては有り難みを実感できない、よそよそしいものになることを、弁護士会や「改革」の主導者は、もっと理解しておくべきだったと言わなければなりません。
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どういうことかといえば、弁護士会が掲げる政策方針や提案の基本に、自らのそれに都合がいい「市民」像が設定され、あたかもその要求に忖度するような形にしているが、現実の市民とは乖離しているため、いわば当然にズレ、誤算が生じているのではないか、逆にズレ、誤算の根本的原因が、まさにそこにあるのではないか、という指摘になります。
その中身は、あえて大きく分類すれば、二つに分けられます。一つは市民の意識や志向を弁護士会側に都合良く、「高く」(高い、低いで表現するのは若干語弊がありますが)、彼らにとっての理想的なものとして、描く傾向。市民は自立的で、常に行動は主体的であって、弁護士会が掲げる問題提起や司法の現実に対し、強い関心を抱き得る存在である、と。死刑廃止や人権侵害問題、法曹一元などにも、必ずや目を向け、賛同し得る「市民」ということになります。
もう一つは、前記と被る部分もありますが、必ずや弁護士・会を必要とする存在、もしくは弁護士会の活動に必ずやエールを送ってくれる存在として、「市民」をとらえる傾向。市民のなかに(条件を満たせば)、基本的に弁護士・会を必要とする欲求が存在し、場合によっては、おカネを投入する用意も、意識も十分に存在しているととらえたり、弁護士自治もその存在意義を理解して、必ずや賛同してくれる存在とみているようにとれます(「『市民の理解』がはらむ問題」)。
「し得る」とか「必ずや」とか「条件を満たせば」といった、可能性に期待するような言葉を敢えて挟んでいるのは、弁護士会のスタンスの特徴として、もし、現実的な乖離がそこに現在、存在しているとしても、それそのものを「課題」として、「なんとかしなければならないもの」、あるいは弁護士側の「努力次第で現実化するもの」ととらえがちである、ということがまた、弁護士会的なスタンスととれるからです。
結局は、「市民のため」「市民の理解」ということを掲げながら、等身大の市民ではなく、あくまで彼らにとっての、在るべき論が介在しているような「理想像」から、逆算されているようにみえてしまう、ということになります。
実は、「平成の司法改革」そのものにも、そういうニュアンスが読みとれます。司法制度改革審議会意見書の中で、「国民」が次のように描かれている箇所があります。
「国民は、司法の運営に主体的・有意的に参加し、プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていくことが求められる。21世紀のこの国の発展を支える基盤は、究極において、統治主体・権利主体である我々国民一人ひとりの創造的な活力と自由な個性の展開、そして他者への共感に深く根ざした責任感をおいて他にないのであり、そのことは司法との関係でも妥当することを銘記すべきであろう」
「司法の運営に主体的・有意的に参加」したり、「プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め、司法を支えていく」国民は、もちろん現実の国民の意志から逆算されたものではなく、あくまで「改革」者側の、在るべき論に基づく願望といってもいいものです。「統治主体・権利主体である」国民という括りは正しくても、司法の信頼のうえに税金を投入して委託している側が、脱却すべき「統治客体意識」の持ち主とされることには、納得いかない国民がいてもおかしくありません。
「改革」が理想を前提に語って何が悪いという人もいるかもしれません。仮に理想としてそれを提示されても、等身大の国民から捉えなければ、その理想を現実化するには本当は何が必要なのかも見誤ります。まさに、弁護士の需要と弁護士激増政策にしても、裁判員制度にしても「改革」の失敗の根っこには、そのことが横たわっているというべきです。
弁護士会の掲げる「市民」像と現実の市民との隔たりにしても、そのしわ寄せは、結局、等身大の市民と向き合う個々の弁護士が被ることになります。そして、「市民のため」の「改革」と言いながら、それは、弁護士会が理想とした「市民」ではない市民にとっては有り難みを実感できない、よそよそしいものになることを、弁護士会や「改革」の主導者は、もっと理解しておくべきだったと言わなければなりません。
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