弁護士会会長が守った胸像
東京・霞が関の弁護士会館12階にある第一東京弁護士会の会議室の中に、5つの銅製の胸像が、整然と置かれています。花井卓蔵、岸清一、原嘉道、岩田宙造、有馬忠三郎。いずれも同弁護士会ゆかりの著名法曹たちです。
「弁護士界の三傑」といわれた原、花井、岸各像は、戦前、同弁護士会と帝国弁護士会が、その功績を称え、会の事業として2体を製作、一体を本人・遺族に、1体を会館に置いたものといいます。有馬像については、戦後、初代・二代連続して日弁連会長を務めたことから、日弁連が2体製作したうちの1体。岩田像は第一東京弁護士会会長だった江川六兵衛弁護士が岩田弁護士のもとを訪れ、その事務所にあったものをもらい受けたものだそうです。
いずれも旧第一東京弁護士会館にあったものを、1995年の新会館移転の際、磨洗を施したうえ、台座を新しくしたうえで、現在のところに移されました。
このうち昭和6年(1931年)完成の原嘉道像には、こんなエピソードが残っています。昭和18年(1943年)の戦時体制下、兵器材料の不足から金属回収が行われていた中、枢密院議長だった原自身から弁護士会に、胸像献納の提案がありました。
第一東京弁護士会は常議員会で協議し、同会にあった像については、理事者一任を決めますが、当時の名川侃市会長は、頑として、供出を拒否しました。名川侃市弁護士は、ご都合主義を嫌った人物とされ、戦時中、軍部に対して甚だしく悪感情を持ち、ことごとに反発していたと言います。供出提案に対し、彼が言い放ったとされる言葉が残っています。
「軍に差し出したところで、何をするか分かったものではない。それより依然として、ここに置いて後進の指導の用に供した方が、はるかに国家のために有効である」(「私の見た名川君」豊原清作)
時代は戦争一色、弁護士会までが右旋回に戦争支持に傾いていた時です。その中で、名川会長がみせた勇断がなければ、今日、私たちはあの像を見るこしはできなかったことになります。この勇断の翌年、原、名川両弁護士とも、相次いでこの世を去りました。名川弁護士については、初の現職会長の死でした。
名川会長の示した姿勢には、意地やプライドを超えた、法曹としての強い気概と自信を感じます。そして、胸像として残こされた会員の生きざまを、後進の指導に供する意義を「国家として有効」とまでみる意志のなかに、当時の弁護士会指導者が後進に範として伝えるべきと考える、確固たる弁護士の精神を持ち合わせていたようにも思えるのです。
これら法曹人たちの像は、いまやその古めかしい姿とは、あまりにも不釣り合いなインテリジェンスビルの片隅にたたずんでいます。いまは会の許可なしでは、目にすることができない部屋に置かれ、旧会館よりもさらに人目につく機会が減ったのではないかと思います。ただ、それらは動かされることもなく、会員のそばで、じっと弁護士会の歴史を見てきたことになります。
そもそも先進会員の胸像から、その生き方に思いを致すといった、名川弁護士が言ったような後進の指導も、それを受け止める若手弁護士も、いまやどこにもないのかもしれません。時代が求める弁護士の姿もまた、彼らが想像していた未来とは違うものになっているのであれば、それもまた仕方のないいうべきとも思えます。
しかし、この胸像から、私たちは、彼ら5人の存在とともに、名川弁護士が示した、当時の弁護士が持っていた精神の一端を知ることができるように思えます。
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いずれも旧第一東京弁護士会館にあったものを、1995年の新会館移転の際、磨洗を施したうえ、台座を新しくしたうえで、現在のところに移されました。
このうち昭和6年(1931年)完成の原嘉道像には、こんなエピソードが残っています。昭和18年(1943年)の戦時体制下、兵器材料の不足から金属回収が行われていた中、枢密院議長だった原自身から弁護士会に、胸像献納の提案がありました。
第一東京弁護士会は常議員会で協議し、同会にあった像については、理事者一任を決めますが、当時の名川侃市会長は、頑として、供出を拒否しました。名川侃市弁護士は、ご都合主義を嫌った人物とされ、戦時中、軍部に対して甚だしく悪感情を持ち、ことごとに反発していたと言います。供出提案に対し、彼が言い放ったとされる言葉が残っています。
「軍に差し出したところで、何をするか分かったものではない。それより依然として、ここに置いて後進の指導の用に供した方が、はるかに国家のために有効である」(「私の見た名川君」豊原清作)
時代は戦争一色、弁護士会までが右旋回に戦争支持に傾いていた時です。その中で、名川会長がみせた勇断がなければ、今日、私たちはあの像を見るこしはできなかったことになります。この勇断の翌年、原、名川両弁護士とも、相次いでこの世を去りました。名川弁護士については、初の現職会長の死でした。
名川会長の示した姿勢には、意地やプライドを超えた、法曹としての強い気概と自信を感じます。そして、胸像として残こされた会員の生きざまを、後進の指導に供する意義を「国家として有効」とまでみる意志のなかに、当時の弁護士会指導者が後進に範として伝えるべきと考える、確固たる弁護士の精神を持ち合わせていたようにも思えるのです。
これら法曹人たちの像は、いまやその古めかしい姿とは、あまりにも不釣り合いなインテリジェンスビルの片隅にたたずんでいます。いまは会の許可なしでは、目にすることができない部屋に置かれ、旧会館よりもさらに人目につく機会が減ったのではないかと思います。ただ、それらは動かされることもなく、会員のそばで、じっと弁護士会の歴史を見てきたことになります。
そもそも先進会員の胸像から、その生き方に思いを致すといった、名川弁護士が言ったような後進の指導も、それを受け止める若手弁護士も、いまやどこにもないのかもしれません。時代が求める弁護士の姿もまた、彼らが想像していた未来とは違うものになっているのであれば、それもまた仕方のないいうべきとも思えます。
しかし、この胸像から、私たちは、彼ら5人の存在とともに、名川弁護士が示した、当時の弁護士が持っていた精神の一端を知ることができるように思えます。
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