なぜ東京に三つの弁護士会?
依然として、市民によく聞かれることの一つに、東京に三つの弁護士会がある理由、ということがあります。基本的には、私はあえて「経緯はあるけど、気にしなくてもいい」と言うことにしています。その理由は、のちほど。
かつてある弁護士が、市民向けの説明として、「東京の弁護士会はケンカがもとで三つに分かれた」といって同業者の失笑をかったことがありました。いや、でも言い得て妙です。
経緯はこういうことです。もともと一つだった東京弁護士会(東弁)では、明治12年(1879年)以降、小会派連合で多数派の桃李倶楽部が会の役員を統一候補として決定する支配体制を確立していました。これに対し、大正2年(1913年)、少壮の若手弁護士たちが立ち上がり、その後の対立期を経て、大正11年(1922年)、桃李倶楽部の長老派が推す岩田宙造に対し、少壮派の新緑会などが推した乾政彦がついに当選、これを機に長老一派が分裂に動いたのです。
長老派の働きかけで出された100人の同意で、新弁護士会を立ち上げられるとする法案は、日本弁護士協会が反対するなか成立、大正12年(1923年)、原嘉道ら384人が脱会し、第一東京弁護士会(一弁)を設立しました。その後、桃李倶楽部の東明会と新緑会の脱会組の真野毅、海野晋吉、第一東京弁護士会の知新会のメンバーが東明会の仁井田益太郎の呼びかけで、大正15年(1926年)に第二東京弁護士会(二弁)を立ち上げました。
ざっとこんなところです。要するに人事をめぐる派閥抗争の結果なのです。
背景としては、とりわけ最初に分裂した一弁側が強調しているのは、司法試験の改革の影響です。高等学校や大学予科を卒業していない人に予備試験を課す高等試験令実施前の配慮措置で、東弁の弁護士数が一気に前年比で500人増え、2000人を突破、人事の調整が効かなくなったというのです(第一東京弁護士会「われらの弁護士会史」)。一方、東弁の若手改革派の言い分では、桃李倶楽部の完全独裁に対するフラストレーションが頂点に達していたことが挙げられています(岩田春之助「法曹三國志」)。
ただ、さかのぼれば、東京にあった二つの代言人組合の合併に始まる東弁の設立以来、東弁内には暗闘というにふさわしい人事の派閥間抗争の歴史があり、大分裂もそうした土壌の中で、勃発したともいえるのです。
さて、冒頭の話に戻りますが、なぜ、三つかと聞かれた場合、まあ、この経緯は、あるにはありますが、理由といえば、単なる人事をめぐる抗争、「ケンカ」で気にしなくていい、ということになりませんか。なぜ、こう言わなければいけないかというと、要するに、市民はこれを深読みしてしまうからです。
「東京、一、二と並んでいるのは、優秀な順ですか」
「得意な傾向で分類されているんですか」
あえていえば、よく一弁は判事、検事経験者が多く、企業弁護士が多い、とか、二弁は三会の中で一番新しい会(といっても大正15年)で、革新的で元気な人が多いとかいう人がいたりします。まあ、一弁に、判検経験者が多いのは事実ですが、こういう傾向の話は、話半分に聞いていいと思います。
市民としては傾向といえる傾向はない、と考えた方がいいです。結論からいえば、それぞれの会にいろいろな人がいます。何か意味をもって、そういう流れがあるわけでもありません。入会する会員は、それぞれの縁や考えで所属会を決めていますが、明確な傾向に基づいているわけではないです。優秀順でも、得意な分野での区分でも、もちろんありません。
また、説明する側は、十分に気をつけるべきです。なぜなら、こうした傾向の説明で、その会に所属する弁護士に市民が強烈な先入観を持ってしまっている事例を沢山見てきたからです。
意味のない分立をなぜ、続ける?と突っ込まれそうです。かつて、東京の弁護士会が今の弁護士会館のなかに、まとまって入ることになったとき、三会の合併を唱えた弁護士グループが運動をしましたが、うまくいきませんでした。
一つになると、会長など派閥から出しているポストが減ってしまうことなど、やはりここでも人事的な問題も取りざたされましたが、結局、長く分立してきたものをいまさら労力をかけて一つにする現実的メリットに多くの会員が疑問をもってしまったことがありました。三つに分かれていても、三会が協力して市民に対応すればいいんじゃないか、と。
ただ、こんな話もありました。二弁で一時期、真剣に改名を変更しないか、という話がありました。東弁、一弁はいいよ、でも二弁の二はどうなの?ということです。ちょっと割をくっているんじゃないか、と。
この話は、現在、立ち消えになっていますが、当時、呼びかけていた二弁会員の一人は、こんなことを言っていました。
「考えてみてよ、『二』がついてプラスイメージの言葉で思いつくのって、『二枚目』くらいじゃない?」
やっぱり、少々気になるんですね。気持ちは分かります。

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かつてある弁護士が、市民向けの説明として、「東京の弁護士会はケンカがもとで三つに分かれた」といって同業者の失笑をかったことがありました。いや、でも言い得て妙です。
経緯はこういうことです。もともと一つだった東京弁護士会(東弁)では、明治12年(1879年)以降、小会派連合で多数派の桃李倶楽部が会の役員を統一候補として決定する支配体制を確立していました。これに対し、大正2年(1913年)、少壮の若手弁護士たちが立ち上がり、その後の対立期を経て、大正11年(1922年)、桃李倶楽部の長老派が推す岩田宙造に対し、少壮派の新緑会などが推した乾政彦がついに当選、これを機に長老一派が分裂に動いたのです。
長老派の働きかけで出された100人の同意で、新弁護士会を立ち上げられるとする法案は、日本弁護士協会が反対するなか成立、大正12年(1923年)、原嘉道ら384人が脱会し、第一東京弁護士会(一弁)を設立しました。その後、桃李倶楽部の東明会と新緑会の脱会組の真野毅、海野晋吉、第一東京弁護士会の知新会のメンバーが東明会の仁井田益太郎の呼びかけで、大正15年(1926年)に第二東京弁護士会(二弁)を立ち上げました。
ざっとこんなところです。要するに人事をめぐる派閥抗争の結果なのです。
背景としては、とりわけ最初に分裂した一弁側が強調しているのは、司法試験の改革の影響です。高等学校や大学予科を卒業していない人に予備試験を課す高等試験令実施前の配慮措置で、東弁の弁護士数が一気に前年比で500人増え、2000人を突破、人事の調整が効かなくなったというのです(第一東京弁護士会「われらの弁護士会史」)。一方、東弁の若手改革派の言い分では、桃李倶楽部の完全独裁に対するフラストレーションが頂点に達していたことが挙げられています(岩田春之助「法曹三國志」)。
ただ、さかのぼれば、東京にあった二つの代言人組合の合併に始まる東弁の設立以来、東弁内には暗闘というにふさわしい人事の派閥間抗争の歴史があり、大分裂もそうした土壌の中で、勃発したともいえるのです。
さて、冒頭の話に戻りますが、なぜ、三つかと聞かれた場合、まあ、この経緯は、あるにはありますが、理由といえば、単なる人事をめぐる抗争、「ケンカ」で気にしなくていい、ということになりませんか。なぜ、こう言わなければいけないかというと、要するに、市民はこれを深読みしてしまうからです。
「東京、一、二と並んでいるのは、優秀な順ですか」
「得意な傾向で分類されているんですか」
あえていえば、よく一弁は判事、検事経験者が多く、企業弁護士が多い、とか、二弁は三会の中で一番新しい会(といっても大正15年)で、革新的で元気な人が多いとかいう人がいたりします。まあ、一弁に、判検経験者が多いのは事実ですが、こういう傾向の話は、話半分に聞いていいと思います。
市民としては傾向といえる傾向はない、と考えた方がいいです。結論からいえば、それぞれの会にいろいろな人がいます。何か意味をもって、そういう流れがあるわけでもありません。入会する会員は、それぞれの縁や考えで所属会を決めていますが、明確な傾向に基づいているわけではないです。優秀順でも、得意な分野での区分でも、もちろんありません。
また、説明する側は、十分に気をつけるべきです。なぜなら、こうした傾向の説明で、その会に所属する弁護士に市民が強烈な先入観を持ってしまっている事例を沢山見てきたからです。
意味のない分立をなぜ、続ける?と突っ込まれそうです。かつて、東京の弁護士会が今の弁護士会館のなかに、まとまって入ることになったとき、三会の合併を唱えた弁護士グループが運動をしましたが、うまくいきませんでした。
一つになると、会長など派閥から出しているポストが減ってしまうことなど、やはりここでも人事的な問題も取りざたされましたが、結局、長く分立してきたものをいまさら労力をかけて一つにする現実的メリットに多くの会員が疑問をもってしまったことがありました。三つに分かれていても、三会が協力して市民に対応すればいいんじゃないか、と。
ただ、こんな話もありました。二弁で一時期、真剣に改名を変更しないか、という話がありました。東弁、一弁はいいよ、でも二弁の二はどうなの?ということです。ちょっと割をくっているんじゃないか、と。
この話は、現在、立ち消えになっていますが、当時、呼びかけていた二弁会員の一人は、こんなことを言っていました。
「考えてみてよ、『二』がついてプラスイメージの言葉で思いつくのって、『二枚目』くらいじゃない?」
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