「言い掛かりのプロ」とされる弁護士
異業種間で交流するような酒席で、「弁護士」が話題になるときの、よくあるパターンがあります。
当方が弁護士の世界と向き合っているような、仕事をしていると知ると、「ほー、弁護士ですか。弁護士といえば、」と言って、相手か話し出す続きは、まず、とんでもない弁護士から○○されたといった、なんらかの攻撃を受けたエピソードが飛び出すのです。
ただ、悩まされた話をしながらも、どこかそんな弁護士と渡り合ったといった、やや自慢げな調子もあったりします。いずれにしても、少々、お酒がまわってからのことが多いのですが。
もちろん、事実としては、酒席であることも加味して、大幅にさしひいて聞かなければならない内容もあります。弁護士の質の低下はいわれていますが、こうした一方当事者の話には、利害が絡んだ偏見がありますし、そもそも弁護士の仕事への誤解も、酒席なりの脚色もあるでしょう。
ただ、あえて、そうしたことを踏まえたうえで話を進めますが、そうした悩まされた弁護士の姿を語る市民が共通してもっているイメージは、おそらく弁護士は「言い掛かりのプロ」ということです。
子供の通う学校に乗り込んで、理屈にならない理屈で抗議してくる生徒の親が、「モンスターペアレント」として話題になっていますが、最近はその親が弁護士を同道している、という話を聞きます。また、それに対抗して、学校側が弁護士をつけるということもあるようです。
このプロにはプロでという状況を、「プロ化が進んでいる」と表現した新聞がありましたが、モンスターの言い分を前提にしてしまうと、このプロが法律のプロではなく、それこそ「言い掛かりのプロ」とみえてしまいかねません。
実は、こんな見方は酒席だけの見方ではありません。既に紹介しました昨年12月に出された総務省の「法科大学院(法曹養成制度)の政策評価に関する研究会」の報告書にも、委員の意見として、こんなものが紹介されていました。
「今でも、例えば、学校でちょっとしたトラブルの時、親が来ないですぐ弁護士が来て、ああだこうだと言って困ると学校の先生が言っている。弁護士を増やすことが、変に需要を増やすことになりかねず、社会全体としてみると果たして幸せなことなのであろうかと考えてしまう」
この部分については、日弁連も意見書の中で、弁護士の役割について理解されていない問題発言として引用していますが、弁護士が増えることで、増える需要というのが、こうした「言い掛かりのプロ」としての需要であるといっているようにもとれなくありません。
もっとも、もし増員した弁護士を支えるために、掘り起こされることになるこの国の弁護士ニーズの中に、結果として、「言い掛かり」と評されるようなジャンルが多く混在するということになるのであれば、それはこの文面通り、社会全体としては決して幸せなことではありませんし、そもそもそういうことを国民が望んでいるとは思いません。
一方当事者が「言い掛かり」ととれるもののなかに、実は正義がある場合もあるでしょうし、最終的にこれが「言い掛かり」かどうかは、裁判所が決めることという主張もあるでしょう。そういう意味では、何度も書いているように弁護士は宿命的に誤解される職業です。
ただ、あえていえば、程度の問題はあれ、「言い掛かり」ととられかねないことを、ある意味、合法的に主張する弁護士がいることは、ほかならない同業者である弁護士が一番よく知っているはずです。
相手側の弁護士の主張に、「言い掛かりだ」と憤る自分の依頼者に、「確かにそうとれるかもしれないが、法的にはこういわれてもしようがない」と説明する場合もあれば、同業ながら、「これはひどい。自分ならこんな主張はとてもできない」と感じることも、弁護士をやっていれば一度や二度ではないはずです。
そういう意味では、「言い掛かり」のような主張を、この社会でまかり通さないようにするためにも、弁護士が必要であり、力になっているととることだってできるはずです。それが、どうしても逆の「言い掛かりのプロ」ととられるような役割が批判的に強調されてしまうのは、結局、大衆としてはそれが存在しなくていいはずの、紛争の焚きつけととれるからでしょう。
掘り起こされた権利のための主張なのか、それとも本来、裁判で争う必要がない紛争の焚きつけなのか。やはり、社会正義という立場から、弁護士として、そこは立ち止って考えるべきだと思います。

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当方が弁護士の世界と向き合っているような、仕事をしていると知ると、「ほー、弁護士ですか。弁護士といえば、」と言って、相手か話し出す続きは、まず、とんでもない弁護士から○○されたといった、なんらかの攻撃を受けたエピソードが飛び出すのです。
ただ、悩まされた話をしながらも、どこかそんな弁護士と渡り合ったといった、やや自慢げな調子もあったりします。いずれにしても、少々、お酒がまわってからのことが多いのですが。
もちろん、事実としては、酒席であることも加味して、大幅にさしひいて聞かなければならない内容もあります。弁護士の質の低下はいわれていますが、こうした一方当事者の話には、利害が絡んだ偏見がありますし、そもそも弁護士の仕事への誤解も、酒席なりの脚色もあるでしょう。
ただ、あえて、そうしたことを踏まえたうえで話を進めますが、そうした悩まされた弁護士の姿を語る市民が共通してもっているイメージは、おそらく弁護士は「言い掛かりのプロ」ということです。
子供の通う学校に乗り込んで、理屈にならない理屈で抗議してくる生徒の親が、「モンスターペアレント」として話題になっていますが、最近はその親が弁護士を同道している、という話を聞きます。また、それに対抗して、学校側が弁護士をつけるということもあるようです。
このプロにはプロでという状況を、「プロ化が進んでいる」と表現した新聞がありましたが、モンスターの言い分を前提にしてしまうと、このプロが法律のプロではなく、それこそ「言い掛かりのプロ」とみえてしまいかねません。
実は、こんな見方は酒席だけの見方ではありません。既に紹介しました昨年12月に出された総務省の「法科大学院(法曹養成制度)の政策評価に関する研究会」の報告書にも、委員の意見として、こんなものが紹介されていました。
「今でも、例えば、学校でちょっとしたトラブルの時、親が来ないですぐ弁護士が来て、ああだこうだと言って困ると学校の先生が言っている。弁護士を増やすことが、変に需要を増やすことになりかねず、社会全体としてみると果たして幸せなことなのであろうかと考えてしまう」
この部分については、日弁連も意見書の中で、弁護士の役割について理解されていない問題発言として引用していますが、弁護士が増えることで、増える需要というのが、こうした「言い掛かりのプロ」としての需要であるといっているようにもとれなくありません。
もっとも、もし増員した弁護士を支えるために、掘り起こされることになるこの国の弁護士ニーズの中に、結果として、「言い掛かり」と評されるようなジャンルが多く混在するということになるのであれば、それはこの文面通り、社会全体としては決して幸せなことではありませんし、そもそもそういうことを国民が望んでいるとは思いません。
一方当事者が「言い掛かり」ととれるもののなかに、実は正義がある場合もあるでしょうし、最終的にこれが「言い掛かり」かどうかは、裁判所が決めることという主張もあるでしょう。そういう意味では、何度も書いているように弁護士は宿命的に誤解される職業です。
ただ、あえていえば、程度の問題はあれ、「言い掛かり」ととられかねないことを、ある意味、合法的に主張する弁護士がいることは、ほかならない同業者である弁護士が一番よく知っているはずです。
相手側の弁護士の主張に、「言い掛かりだ」と憤る自分の依頼者に、「確かにそうとれるかもしれないが、法的にはこういわれてもしようがない」と説明する場合もあれば、同業ながら、「これはひどい。自分ならこんな主張はとてもできない」と感じることも、弁護士をやっていれば一度や二度ではないはずです。
そういう意味では、「言い掛かり」のような主張を、この社会でまかり通さないようにするためにも、弁護士が必要であり、力になっているととることだってできるはずです。それが、どうしても逆の「言い掛かりのプロ」ととられるような役割が批判的に強調されてしまうのは、結局、大衆としてはそれが存在しなくていいはずの、紛争の焚きつけととれるからでしょう。
掘り起こされた権利のための主張なのか、それとも本来、裁判で争う必要がない紛争の焚きつけなのか。やはり、社会正義という立場から、弁護士として、そこは立ち止って考えるべきだと思います。

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