尊敬される弁護士と「法曹一元」
以前にも書きましたが、法曹界には「法曹一元」という考え方があります。文字通り、法曹、つまり裁判官、検察官、弁護士は一元であるということですが、その解釈には人によって若干違いがあります。
統一試験、統一修習という言い方がありますが、これは要するに同じ試験を受け、同じ司法修習で席を並べることをいっています。こういう制度になっていることで、わが国が法曹一元になっているんだという人もいます。あるいは、その後も、判事と検事が人事交流したり、弁護士が任官したりするのも、「法曹一元だから」と解釈されてもいます。
「法曹一元」という言葉の解釈として、これらは間違っているとまでは言い切れませんが、実は本来は別の意味を持っています。それは、裁判官は弁護士から選ぶ制度という意味です。
この国で、それが一顧だにされてこなかったかというと、実は違います。1962年にこの問題を検討するために内閣につくられた臨時司法制度調査会。その設置法には、実はこの法曹一元制度がこう定義されています。
「裁判官は弁護士となる資格を有する者で裁判官としての職務以外の法律に関する職務に従事したもののうちから任命することを原則とする制度」
この定義づけでさえも、かつての弁護士の中には不満がありました。英国の制度にならったこの考えは、本来は「弁護士となる資格を有する者」からではなく、「経験を積んだ弁護士」の中から、とすべきなのだと。資格といってしまったら、弁護士だけてはなく、法学者、行政官、警察官に無性格的に拡大されてしまうことを問題視したのです(松井康浩「司法政策の基本問題」)。
何で弁護士から?と思われる方もいるかもしれません。基本的には、弁護士の、国民生活を守ってきたという生きた経験が裁判にいかされるべき、という考えが基本にありました。
弁護士会もこの考え方をずっと主張してきましたが、結論からいうと、この話はどんどん消えていきました。法曹一元については、回を改めて詳しく書きたいと思いますが、とにかくこの国では、そういう意味での法曹一元は実現しておらず、主張する人もほとんどいなくなってしまったということです。そこには、いろいろなこの国の事情はあります。
ただ、一ついえば、この制度を成り立たせるためには、ある環境が必要であることは確かです。それは、社会の中で、弁護士が市民から尊敬される存在であるか、ということです。
弁護士は社会の常識・良識という価値基準を実現するために法解釈を行っているという考え方があります。以前も書きましたが、依頼者の利益を守るといっても、都合良く解釈して、黒を白にしたりする技術を持っている人ではありません。
法律(成文法)は本来、この価値基準を反映していなければなりません。社会の常識・良識は、変化しますから、法律はズレることがあります。ある意味、成立した瞬間から、ズレ始めているとみることもできるわけで、そこで改正がなされたりするわけです。
法律にこのズレがなければ、きっちりこれに沿った解釈を加え、主張することで、依頼者・市民の権利を利益が守る。もし、ズレているのであれば、その法律を変えるべきだと、主張する。それが、弁護士の仕事です。
そうなると、弁護士自身が社会の中で、この常識・良識を持ち合わせている人間である必要があります。弁護士に厳しい職業倫理が求められることの意味も、そこにあるといっていいと思います。そして、そういう存在として、社会、あるいは地域で、尊敬される存在であることが、裁判官は弁護士から、という法曹一元実現の基本的な環境なのです。
英国でこの制度が成り立ったのも、要するに弁護士が社会で一目置かれる存在であったことを挙げる人がいます。法曹一元は国民の声として、挙がっても、おかしくないのです。
この国では、裁判官は弁護士からお願いすることで、社会の常識を反映しようという話になる前に、裁判官は従来のままで、国民が参加することで、社会の常識を反映しようという話になっています。もっとも、この形も、国民が求めたわけではありませんが。
弁護士が社会で尊敬される存在であることも、本来の意味での法曹一元とともに、この国でかすんできてしまっているような印象を持ってしまいます。

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統一試験、統一修習という言い方がありますが、これは要するに同じ試験を受け、同じ司法修習で席を並べることをいっています。こういう制度になっていることで、わが国が法曹一元になっているんだという人もいます。あるいは、その後も、判事と検事が人事交流したり、弁護士が任官したりするのも、「法曹一元だから」と解釈されてもいます。
「法曹一元」という言葉の解釈として、これらは間違っているとまでは言い切れませんが、実は本来は別の意味を持っています。それは、裁判官は弁護士から選ぶ制度という意味です。
この国で、それが一顧だにされてこなかったかというと、実は違います。1962年にこの問題を検討するために内閣につくられた臨時司法制度調査会。その設置法には、実はこの法曹一元制度がこう定義されています。
「裁判官は弁護士となる資格を有する者で裁判官としての職務以外の法律に関する職務に従事したもののうちから任命することを原則とする制度」
この定義づけでさえも、かつての弁護士の中には不満がありました。英国の制度にならったこの考えは、本来は「弁護士となる資格を有する者」からではなく、「経験を積んだ弁護士」の中から、とすべきなのだと。資格といってしまったら、弁護士だけてはなく、法学者、行政官、警察官に無性格的に拡大されてしまうことを問題視したのです(松井康浩「司法政策の基本問題」)。
何で弁護士から?と思われる方もいるかもしれません。基本的には、弁護士の、国民生活を守ってきたという生きた経験が裁判にいかされるべき、という考えが基本にありました。
弁護士会もこの考え方をずっと主張してきましたが、結論からいうと、この話はどんどん消えていきました。法曹一元については、回を改めて詳しく書きたいと思いますが、とにかくこの国では、そういう意味での法曹一元は実現しておらず、主張する人もほとんどいなくなってしまったということです。そこには、いろいろなこの国の事情はあります。
ただ、一ついえば、この制度を成り立たせるためには、ある環境が必要であることは確かです。それは、社会の中で、弁護士が市民から尊敬される存在であるか、ということです。
弁護士は社会の常識・良識という価値基準を実現するために法解釈を行っているという考え方があります。以前も書きましたが、依頼者の利益を守るといっても、都合良く解釈して、黒を白にしたりする技術を持っている人ではありません。
法律(成文法)は本来、この価値基準を反映していなければなりません。社会の常識・良識は、変化しますから、法律はズレることがあります。ある意味、成立した瞬間から、ズレ始めているとみることもできるわけで、そこで改正がなされたりするわけです。
法律にこのズレがなければ、きっちりこれに沿った解釈を加え、主張することで、依頼者・市民の権利を利益が守る。もし、ズレているのであれば、その法律を変えるべきだと、主張する。それが、弁護士の仕事です。
そうなると、弁護士自身が社会の中で、この常識・良識を持ち合わせている人間である必要があります。弁護士に厳しい職業倫理が求められることの意味も、そこにあるといっていいと思います。そして、そういう存在として、社会、あるいは地域で、尊敬される存在であることが、裁判官は弁護士から、という法曹一元実現の基本的な環境なのです。
英国でこの制度が成り立ったのも、要するに弁護士が社会で一目置かれる存在であったことを挙げる人がいます。法曹一元は国民の声として、挙がっても、おかしくないのです。
この国では、裁判官は弁護士からお願いすることで、社会の常識を反映しようという話になる前に、裁判官は従来のままで、国民が参加することで、社会の常識を反映しようという話になっています。もっとも、この形も、国民が求めたわけではありませんが。
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