旧弁護士会館の奇跡
太平洋戦争末期の東京・霞が関の司法関連施設集中地区、いわゆる「司法街区」と呼ばれる地区の様子を紹介する資料はあまりありません。各弁護士会史も、当時の戦時体制に組み込まれていった会の様子については、それなりに触れていますが、司法街区について記録しているのは、第一東京弁護士会の「われらの弁護士会史」だけです。
そこに、こんなエピソードが紹介されています。1945年3月9日の深夜から10日未明にかけてのB29による、いわゆる東京大空襲で、東京の市街地の4割は灰になり、さらに4、5月と続いた空襲は、東京を見渡す限り、焼け野原にしましたが、霞が関の司法街区は3月の空襲で、既にそのほとんどが廃墟と化していました。ドイツ人ハルトングの設計になる明治の文化財、旧最高裁判所庁舎となる大審院(現・東京高裁庁舎所在地)も、青銅の屋根をやられて、無残にも内部が焼け抜けた状態になっていました。
しかし、不思議なことに、東京の三つの弁護士会館だけは、異状がなく、取り残されたように無事な姿でした。何発かの焼夷弾を受けたらしいのですが、大事に至らなかったのです。同年4月25日に空襲でのびのびになっていた第一東弁の総会が開かれた時には、敵機来襲のない午前中が選ばれ、その焼け残った会館に、防空頭巾に胸には氏名と血液型を書いた白布、足にはゲートル巻きの会員が参集した、と「会史」は伝えています。
この東京三弁護士会館の「奇跡」に目をつけたのが、司法省でした。大被害を受けた裁判所はあちこちを物色し、焼け残った跡見女学校を大審院にするなどの応急の仮庁舎を設けましたが、それでも間に合わず、三弁護士会に焼け残った会館の一部提供を申し入れてきたのでした。
第一東弁ではこれに応じ、3階を東京民事地方裁判所と区裁判所超低事務所に提供。のちに終戦をはさみ、東京民事家事審判所調停部がこれに変わり、昭和24年6月まで、この同居生活は続いたのでした。また、被災会員のために臨時に会館を事務所として提供する方針もとられた、としています。
それから67年。戦火を免れた三つの弁護士会館は、今は影も形もなく、その跡地のすぐそばに、地上17階インテリジェントビルに生まれ変わった弁護士会館がそびえたっています。1995年の完成時には、折から弁護士会には自由競争を排除した独占体質があるとして、それを中世のギルドになぞらえた「ギルド批判」を展開した大新聞が、この建物をその象徴として「ギルドの塔」などと皮肉たっぷりに銘打ったこともありました(「『ギルドの塔』と呼ばれた弁護士会館」)。
今、この建物に対して、そんな言い方をする人はいませんが、依然、その豪華さは、残念ながら庶民の味方というよりも、リッチな資格業・儲けているエリートをイメージさせるものではあるようです。
不思議なことですが、旧会館が姿を消し、新会館になって16年が経過したにもかかわらず、時々、あの古めかしい弁護士会館がまだ、あの辺りに存在しているような気持ちなることがあります。法改正反対の垂れ幕がかかる、砦のような、あの会館が今も使われていたならば、どうかなどということも頭を過ります。利便を無視した単なるアナクロ、今の弁護士にはふさわしくない、という声も聞こえてきそうですが、あの地で歴史を刻み、「奇跡」を生んだ、あるいは戦火を越えたこの国の司法の記念碑ともいうべき旧会館は、少なくとも今とは違う弁護士像を大衆にイメージさせていたかもしれない、などと、つい思ってしまうのです。
ただいま、「今回の日弁連会長選挙」「検察審の強制起訴制度」についてもご意見募集中!
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しかし、不思議なことに、東京の三つの弁護士会館だけは、異状がなく、取り残されたように無事な姿でした。何発かの焼夷弾を受けたらしいのですが、大事に至らなかったのです。同年4月25日に空襲でのびのびになっていた第一東弁の総会が開かれた時には、敵機来襲のない午前中が選ばれ、その焼け残った会館に、防空頭巾に胸には氏名と血液型を書いた白布、足にはゲートル巻きの会員が参集した、と「会史」は伝えています。
この東京三弁護士会館の「奇跡」に目をつけたのが、司法省でした。大被害を受けた裁判所はあちこちを物色し、焼け残った跡見女学校を大審院にするなどの応急の仮庁舎を設けましたが、それでも間に合わず、三弁護士会に焼け残った会館の一部提供を申し入れてきたのでした。
第一東弁ではこれに応じ、3階を東京民事地方裁判所と区裁判所超低事務所に提供。のちに終戦をはさみ、東京民事家事審判所調停部がこれに変わり、昭和24年6月まで、この同居生活は続いたのでした。また、被災会員のために臨時に会館を事務所として提供する方針もとられた、としています。
それから67年。戦火を免れた三つの弁護士会館は、今は影も形もなく、その跡地のすぐそばに、地上17階インテリジェントビルに生まれ変わった弁護士会館がそびえたっています。1995年の完成時には、折から弁護士会には自由競争を排除した独占体質があるとして、それを中世のギルドになぞらえた「ギルド批判」を展開した大新聞が、この建物をその象徴として「ギルドの塔」などと皮肉たっぷりに銘打ったこともありました(「『ギルドの塔』と呼ばれた弁護士会館」)。
今、この建物に対して、そんな言い方をする人はいませんが、依然、その豪華さは、残念ながら庶民の味方というよりも、リッチな資格業・儲けているエリートをイメージさせるものではあるようです。
不思議なことですが、旧会館が姿を消し、新会館になって16年が経過したにもかかわらず、時々、あの古めかしい弁護士会館がまだ、あの辺りに存在しているような気持ちなることがあります。法改正反対の垂れ幕がかかる、砦のような、あの会館が今も使われていたならば、どうかなどということも頭を過ります。利便を無視した単なるアナクロ、今の弁護士にはふさわしくない、という声も聞こえてきそうですが、あの地で歴史を刻み、「奇跡」を生んだ、あるいは戦火を越えたこの国の司法の記念碑ともいうべき旧会館は、少なくとも今とは違う弁護士像を大衆にイメージさせていたかもしれない、などと、つい思ってしまうのです。
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