無責任な法科大学院関係者の「擁護論」
産経新聞が法科大学院に関して、後藤昭・一橋大大学院法学研究科教授と、安念潤司・中央大法科大学院教授の見解を紹介した「金曜討論」(7月6日付け朝刊)が、弁護士のブログで話題となっています。既に、「Schulze BLOG」、「坂野弁護士ブログ」が、極めて「有効」といえる突っ込みを入れていますので、是非、そちらをご覧頂きたいと思います。
後藤教授の発言についていえば、法科大学院関係者の、いわゆる看板を背負ったご発言ということでは分かりやすいといえます。合格率を上げれば、法科大学院の魅力が高まる。志望者が増え、受験者全体の単年度合格率を50%程度に上げれば、上位校では80~90%の合格率に達する。本質的に法律を学ぶ姿勢が一般的になり、会社を辞めてでも法曹を目指そうとする人が増える。日本は法曹資格を取得するのが、今でも過度に難しいのが問題。試験で測れる能力は限られ、専門職としての教育をしっかり受けることが大切。予備試験は、経済的事情のある人などに向けた例外的な措置と考えるべき。組織内弁護士の潜在的な需要は大きいはずだが、現状では他の先進国と異なり、市場が小さい。大学院を通じて法曹人口を増やし、活用の場を広げる司法制度改革の理念を官民ともに推進しなくては、国際水準から遅れた“ガラパゴス社会”化が進行する――。
他力本願的とでもいうべきでしょうか。とにかく合格率をなんとかしてくれ。そうすればなんとかなる。プロセスの教育という理念は、基本的に間違いではなく、法科大学院本道主義の旗は降ろすべきではない。法曹人口増員政策は正しく、組織内弁護士の需要は大きいはずだし、官民で「受け皿」を作れ、と。「改革」路線、ならびに法科大学院擁護の典型的ご意見です。法科大学院制度そのものの見込み違い、失敗、反省の言葉が、見事に聞かれず、周辺的なことで法科大学院は生き残れるとする見方のようにとれます。
一方、安念教授は合格者増の必要性と司法試験が難しすぎるという結論においては、後藤教授と同じですが、多様な人材の輩出など法科大学院制度の理念が実現できていないことについては、より厳しい評価を下しています。その意味で、前記ブログで坂野真一弁護士も、安念教授の方が「現状を正しく把握している点ではまだ、後藤氏よりマシだ」という評価も下しています。
ただ、あえてどちらがより分かりづらいかと言えば、それは安念教授の見解の方であるように思えてなりません。彼は、法科大学院が理念を実現していないことを認めながら、とにかく司法試験に合格させろ、といっているからです。早晩淘汰される、この方向では魅力も一層乏しくなり、凋落さらに早い、としつつ、司法試験合格者は増やすべき、と。「法科大学院は不要か」と問われれば、「教育内容などから法科大学院を出たことを世間が高く評価するようになれば、自然と入学志望者は集まってくる」。
記者のまとめ方がおかしいのかもしれませんが、これを読む限り、安念教授は、理念を実現できていない法科大学院でも、生き残らすために、合格率は上げるべきで、ゆくゆく修了者への教育効果が社会的に認知されてくれば、根本的に入学希望者増にもつながるはずだ、ということのようです。
ただ、極めつけは次の発言です。
(--現状を打開する手段は?)
「毎年の合格者数をどんどん増やせばよい。平均的な法曹の質は当然低下するが、誰が困るというのか。上位合格者の質は変わらないだろうし、良い弁護士に相談したければ、医者や歯医者と同じように、自分で探せばよい」
「質が低下しても誰が困るか」というのは、既に5月31日付け朝日新聞朝刊の対論形式記事でも、安念教授が展開されているお得意の論法です(「刷り込まれる『弁護士大増員』という前提」)。彼は、法科大学院制度にしても、増員政策にしても、「質」の保証は、勘案しなくてもいい、すべては淘汰よって解決するという立場に読めます。とりあえず、放出せよ、ということです。それは、前記法科大学院の教育効果が社会的に認知されるまでの間、理念的に実現されない法科大学院が法曹の卵を輩出する責任など、もとより念頭にないことを読み取ることができます。逆に言えば、理念的なものが実現されていないのに、なぜ、それならば法科大学院をそこまでして存続させる必要があるのか、という問いかけも、彼には意味をなさないことになります。
後藤教授の、立場を反映したような苦しい擁護論よりも、安念教授の発言の分かりづらさは、むしろ責任という意味で、より法科大学院制度の擁護論にはなり得ないように思えます。
ただいま、「受験回数制限」「予備試験」についてもご意見募集中!
投稿サイト「司法ウオッチ」では皆様の意見を募集しています。是非、ご参加下さい。http://www.shihouwatch.com/
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後藤教授の発言についていえば、法科大学院関係者の、いわゆる看板を背負ったご発言ということでは分かりやすいといえます。合格率を上げれば、法科大学院の魅力が高まる。志望者が増え、受験者全体の単年度合格率を50%程度に上げれば、上位校では80~90%の合格率に達する。本質的に法律を学ぶ姿勢が一般的になり、会社を辞めてでも法曹を目指そうとする人が増える。日本は法曹資格を取得するのが、今でも過度に難しいのが問題。試験で測れる能力は限られ、専門職としての教育をしっかり受けることが大切。予備試験は、経済的事情のある人などに向けた例外的な措置と考えるべき。組織内弁護士の潜在的な需要は大きいはずだが、現状では他の先進国と異なり、市場が小さい。大学院を通じて法曹人口を増やし、活用の場を広げる司法制度改革の理念を官民ともに推進しなくては、国際水準から遅れた“ガラパゴス社会”化が進行する――。
他力本願的とでもいうべきでしょうか。とにかく合格率をなんとかしてくれ。そうすればなんとかなる。プロセスの教育という理念は、基本的に間違いではなく、法科大学院本道主義の旗は降ろすべきではない。法曹人口増員政策は正しく、組織内弁護士の需要は大きいはずだし、官民で「受け皿」を作れ、と。「改革」路線、ならびに法科大学院擁護の典型的ご意見です。法科大学院制度そのものの見込み違い、失敗、反省の言葉が、見事に聞かれず、周辺的なことで法科大学院は生き残れるとする見方のようにとれます。
一方、安念教授は合格者増の必要性と司法試験が難しすぎるという結論においては、後藤教授と同じですが、多様な人材の輩出など法科大学院制度の理念が実現できていないことについては、より厳しい評価を下しています。その意味で、前記ブログで坂野真一弁護士も、安念教授の方が「現状を正しく把握している点ではまだ、後藤氏よりマシだ」という評価も下しています。
ただ、あえてどちらがより分かりづらいかと言えば、それは安念教授の見解の方であるように思えてなりません。彼は、法科大学院が理念を実現していないことを認めながら、とにかく司法試験に合格させろ、といっているからです。早晩淘汰される、この方向では魅力も一層乏しくなり、凋落さらに早い、としつつ、司法試験合格者は増やすべき、と。「法科大学院は不要か」と問われれば、「教育内容などから法科大学院を出たことを世間が高く評価するようになれば、自然と入学志望者は集まってくる」。
記者のまとめ方がおかしいのかもしれませんが、これを読む限り、安念教授は、理念を実現できていない法科大学院でも、生き残らすために、合格率は上げるべきで、ゆくゆく修了者への教育効果が社会的に認知されてくれば、根本的に入学希望者増にもつながるはずだ、ということのようです。
ただ、極めつけは次の発言です。
(--現状を打開する手段は?)
「毎年の合格者数をどんどん増やせばよい。平均的な法曹の質は当然低下するが、誰が困るというのか。上位合格者の質は変わらないだろうし、良い弁護士に相談したければ、医者や歯医者と同じように、自分で探せばよい」
「質が低下しても誰が困るか」というのは、既に5月31日付け朝日新聞朝刊の対論形式記事でも、安念教授が展開されているお得意の論法です(「刷り込まれる『弁護士大増員』という前提」)。彼は、法科大学院制度にしても、増員政策にしても、「質」の保証は、勘案しなくてもいい、すべては淘汰よって解決するという立場に読めます。とりあえず、放出せよ、ということです。それは、前記法科大学院の教育効果が社会的に認知されるまでの間、理念的に実現されない法科大学院が法曹の卵を輩出する責任など、もとより念頭にないことを読み取ることができます。逆に言えば、理念的なものが実現されていないのに、なぜ、それならば法科大学院をそこまでして存続させる必要があるのか、という問いかけも、彼には意味をなさないことになります。
後藤教授の、立場を反映したような苦しい擁護論よりも、安念教授の発言の分かりづらさは、むしろ責任という意味で、より法科大学院制度の擁護論にはなり得ないように思えます。
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