「本人訴訟」への弁護士の姿勢
読売新聞が1月12日夕刊で報道した「本人訴訟」に関する記事が、弁護士の間でも話題になっています。
「司法制度改革によって弁護士の数が10年前の約1・8倍に増加したにもかかわらず、原告または被告に弁護士が付かない『本人訴訟』が地裁の民事裁判に占める割合が14ポイントも増え、73%に上っていることが最高裁の集計で明らかになった」
「訴訟が定型化している過払い金返還請求訴訟が増えたのが大きな要因だが、同訴訟などを除いても、本人訴訟の割合は10年前と同じ約6割で推移していた」
この内容には、弁護士の間で首をかしげる方も多く、既にいろいろな方がこの統計の引用のおかしさについて、分析されています(「ひまテラNews」「監査とセキュリティの間」)。
詳しくはそちらにゆだねることにしますが、要するに①「読売」の記事は、「原告と被告の両方に弁護士がついている」もの以外を「本人訴訟」としており、実際は「原告・被告どちらか弁護士がついている」ものは、7割を超している(2009年は74.7%)②原告と被告で弁護士選任率には格差がある(同年2009年で「弁護士をつけていない」のは、原告側は3割、被告側は7割)③「金銭」「建物」関係で弁護士選任率が低いのは、過払金返還請求事件の「定型化」に加えて、被告は貸金業者で、そのほとんどが訴訟外の和解または取り下げによって終了しており、「建物」は大半が明渡請求事件で、当事者間に争いがない、といった事情がある――といったことが指摘されています。
それはそれとして、問題は、こうした「本人訴訟」に対して、基本的に今後、弁護士がどういうスタンスで臨むかです。要するに、できるものなら(できる環境を整えられるなら)「本人訴訟」を積極的に支援するのか、それともやはり弁護士としては歓迎しない立場をとるのか、ということです。
これは、一概には言いにくい問題だとは思います。「読売」の記事は、「本人訴訟」を選択せざるを得ないのは弁護士費用が、依然として高額であることを挙げています。弁護士の増員で、競争によって、報酬の低額化が進むことが期待されたのに、そうなってないじゃないか、という話につながります。
この点を正面から受け止めている弁護士もいるようですが、そうなると、より価格競争を激化させることで、国民がやりたくもない「本人訴訟」から解放される、という話になります。国民としては、弁護士をつけたいのは、やまやまなのだと。もちろん、増員方向も肯定されます。
違う見方は、「本人訴訟」は、あくまで市民の選択肢なのだとする考え方です。ネットなどの情報提供で、やれる環境が整いつつあるという見方もあり、また、この考えの前提として、前者とは逆に、できることならおカネをかけて弁護士をつける形にしたくない、そういう形で処理できるようにしてもらいたい、と考えている国民もいる、ということです。つまり、そう考える人のための選択肢を確保すべき、また、そのための環境整備があってもいい、というわけです。支援という立場に立ってきた司法書士の中には、こうした考えがあります。
そもそも、現状で原告側は3割、被告側は7割が弁護士を付けていないというように格差があるのは、訴える側(原告)は勝つつもりでいるから7割が弁護士費用をかけて訴える、訴えられる側(被告)は、訴えの内容を確認して、費用対効果を考慮のうえ3割が弁護士を利用する、という当事者のいわば選択があるから、という分析もあります(前記「監査とセキュリティの間」)。
もっとも「読売」は、さらに全く違う見方も示しています。
「弁護士が報酬の低い仕事を避けている可能性がある」
こんな裁判所幹部の話とともに、弁護士増員で採算の合わない仕事は引き受ける余裕がない、という弁護士の話も載せています。やはり、「選択」したのは市民ではなく、弁護士の「選択」によって、市民の「選択」が余儀なくされた、というとらえ方のようです。
「本人訴訟」は市民が費用面で弁護士を敬遠した結果なのか、弁護士が仕事を敬遠した結果なのか、分からない話になっています。
また、裁判の迅速化という観点での見方もあります。基本的には「本人訴訟」ではない形が望ましいということのようですが、弁護士へのアクセスも確保され、費用も払う用意があるが、本人訴訟を選択している人がいる(本当にそういう人がどのくらいいるか、分かりませんが)ということで、最高裁の検討会では、「弁護士強制」も俎上に上がったようです。
今後、最高裁の司法研修所が「本人訴訟」の初の調査に乗り出すということになっていますが、「弁護士強制」の方向も、弁護士の中には、悪くない話としてとらえる向きもいるようです。しかし、考えようによっては、アクセスも費用も確保されて、それでも弁護士はいらない、というのであれば、それこそ市民の確固たる選択ということにもなります。
もっとも、現状では「本人訴訟」は、当事者にものすごい労力がかかり、リスクもあります。弁護士がつくことの意味は、もちろん大きい面もあります。実際には案件によって、弁護士が必要でないものとそうでないものの、その程度もいろいろですが、選択をいうのであれば、弁護士がつくメリットもフェアに大衆に伝えられなければなりません。
一つはっきり言えることは、このテーマについて、弁護士はくれぐれも市民に誤解されないように、慎重に発言すべきということです。「本人訴訟」が市民に望ましくないと思っているか、弁護士にとって妙味がないと敬遠しているか、いずれにしても、またぞろ、「自分のカネ儲けのことばかり考えて、国民の選択機会を奪おうとしている」という弁護士エゴ批判に、火をつける危険性があることは間違いありませんから。

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「司法制度改革によって弁護士の数が10年前の約1・8倍に増加したにもかかわらず、原告または被告に弁護士が付かない『本人訴訟』が地裁の民事裁判に占める割合が14ポイントも増え、73%に上っていることが最高裁の集計で明らかになった」
「訴訟が定型化している過払い金返還請求訴訟が増えたのが大きな要因だが、同訴訟などを除いても、本人訴訟の割合は10年前と同じ約6割で推移していた」
この内容には、弁護士の間で首をかしげる方も多く、既にいろいろな方がこの統計の引用のおかしさについて、分析されています(「ひまテラNews」「監査とセキュリティの間」)。
詳しくはそちらにゆだねることにしますが、要するに①「読売」の記事は、「原告と被告の両方に弁護士がついている」もの以外を「本人訴訟」としており、実際は「原告・被告どちらか弁護士がついている」ものは、7割を超している(2009年は74.7%)②原告と被告で弁護士選任率には格差がある(同年2009年で「弁護士をつけていない」のは、原告側は3割、被告側は7割)③「金銭」「建物」関係で弁護士選任率が低いのは、過払金返還請求事件の「定型化」に加えて、被告は貸金業者で、そのほとんどが訴訟外の和解または取り下げによって終了しており、「建物」は大半が明渡請求事件で、当事者間に争いがない、といった事情がある――といったことが指摘されています。
それはそれとして、問題は、こうした「本人訴訟」に対して、基本的に今後、弁護士がどういうスタンスで臨むかです。要するに、できるものなら(できる環境を整えられるなら)「本人訴訟」を積極的に支援するのか、それともやはり弁護士としては歓迎しない立場をとるのか、ということです。
これは、一概には言いにくい問題だとは思います。「読売」の記事は、「本人訴訟」を選択せざるを得ないのは弁護士費用が、依然として高額であることを挙げています。弁護士の増員で、競争によって、報酬の低額化が進むことが期待されたのに、そうなってないじゃないか、という話につながります。
この点を正面から受け止めている弁護士もいるようですが、そうなると、より価格競争を激化させることで、国民がやりたくもない「本人訴訟」から解放される、という話になります。国民としては、弁護士をつけたいのは、やまやまなのだと。もちろん、増員方向も肯定されます。
違う見方は、「本人訴訟」は、あくまで市民の選択肢なのだとする考え方です。ネットなどの情報提供で、やれる環境が整いつつあるという見方もあり、また、この考えの前提として、前者とは逆に、できることならおカネをかけて弁護士をつける形にしたくない、そういう形で処理できるようにしてもらいたい、と考えている国民もいる、ということです。つまり、そう考える人のための選択肢を確保すべき、また、そのための環境整備があってもいい、というわけです。支援という立場に立ってきた司法書士の中には、こうした考えがあります。
そもそも、現状で原告側は3割、被告側は7割が弁護士を付けていないというように格差があるのは、訴える側(原告)は勝つつもりでいるから7割が弁護士費用をかけて訴える、訴えられる側(被告)は、訴えの内容を確認して、費用対効果を考慮のうえ3割が弁護士を利用する、という当事者のいわば選択があるから、という分析もあります(前記「監査とセキュリティの間」)。
もっとも「読売」は、さらに全く違う見方も示しています。
「弁護士が報酬の低い仕事を避けている可能性がある」
こんな裁判所幹部の話とともに、弁護士増員で採算の合わない仕事は引き受ける余裕がない、という弁護士の話も載せています。やはり、「選択」したのは市民ではなく、弁護士の「選択」によって、市民の「選択」が余儀なくされた、というとらえ方のようです。
「本人訴訟」は市民が費用面で弁護士を敬遠した結果なのか、弁護士が仕事を敬遠した結果なのか、分からない話になっています。
また、裁判の迅速化という観点での見方もあります。基本的には「本人訴訟」ではない形が望ましいということのようですが、弁護士へのアクセスも確保され、費用も払う用意があるが、本人訴訟を選択している人がいる(本当にそういう人がどのくらいいるか、分かりませんが)ということで、最高裁の検討会では、「弁護士強制」も俎上に上がったようです。
今後、最高裁の司法研修所が「本人訴訟」の初の調査に乗り出すということになっていますが、「弁護士強制」の方向も、弁護士の中には、悪くない話としてとらえる向きもいるようです。しかし、考えようによっては、アクセスも費用も確保されて、それでも弁護士はいらない、というのであれば、それこそ市民の確固たる選択ということにもなります。
もっとも、現状では「本人訴訟」は、当事者にものすごい労力がかかり、リスクもあります。弁護士がつくことの意味は、もちろん大きい面もあります。実際には案件によって、弁護士が必要でないものとそうでないものの、その程度もいろいろですが、選択をいうのであれば、弁護士がつくメリットもフェアに大衆に伝えられなければなりません。
一つはっきり言えることは、このテーマについて、弁護士はくれぐれも市民に誤解されないように、慎重に発言すべきということです。「本人訴訟」が市民に望ましくないと思っているか、弁護士にとって妙味がないと敬遠しているか、いずれにしても、またぞろ、「自分のカネ儲けのことばかり考えて、国民の選択機会を奪おうとしている」という弁護士エゴ批判に、火をつける危険性があることは間違いありませんから。
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