「やめられない」事情と矛盾
先日のエントリーで、「資格」としての弁護士人気の暴落に関して書きましたが(「弁護士『人気商売信仰』の破綻と『有志の犠牲』」)、この現状に対して、「弁護士資格の『価値』が暴落した」という表現が使われるのをみると、複雑な気持ちになります。
もちろん、この表現が弁護士志望者目線に立っていることは分かりますし、その意味では間違っているとはいえません。つまり、前記エントリーで書いた不人気のもとになっている費用対効果において、志望者からみて、資格として「価値」を見出せず、それゆえにこの道を選択しないという現実です。むしろ、その現実を浮き立たせるためにも、資格の「価値」低下という言い方を、あえて使っている方もいるようにもとれます。
ただ、いうまでもないことですが、弁護士の社会的役割としての価値が、ここにきて暴落しているわけではありません。むしろ、この「改革」路線の基本は、ますます役割は重要になり、「価値」は上がるというもので、それはいまだに連呼されている。問題はここにあります。社会的に「価値」があるはずのものが、志望者にとって「価値」がないものとなりつつあるという現実です。
2012年という年を振り返ると、今年ほど、弁護士が、この資格の「価値」という問題に直面していることを実感した年はなかったのではないか、と思えます。つまり、「改革」の結果、本当に弁護士界に人が来なくなるということへの現実味です。また、それと同時に、「価値」を強調する「改革」路線が、同時に前記した意味で資格の「価値」を下げている(もっとも、これが「改革」の隠された目的ではなかったのか、という見方も根強くありますが)という、いわば矛盾も、はっきりした年だったと思います。
「改革」路線が依然こだわり続ける法曹養成の中核としての法科大学院制度、その関係者が唱える合格者増、そして彼ら支持した貸与制。需要がない状態で、志望者にとっての資格の「価値」をさげて、なぜ、学生が集まるのか、法科大学院関係者自身が、首を絞めているということになぜ、気が付かない、という声が聞かれます(「Schulze BLOG」)。
「改革」路線が市場原理にゆだねるという立場に立ちながら、需要の有無においても、それに対して弁護士がとらざるを得ない行動においても、そして志望予定者が食えないところを目指さないことにおいても、なにやら現実に対する認識がチグハグな感じがしてしまうのは、やはり主導者が失敗を認められない、あるいはそうした事情を抱えているからだけではないのか――どうしても、そんな気持ちにさせられた年でもありました。
「分かっているけどやめられない」事情が、現実的に何を犠牲にしようとしているのか、それがその犠牲に見合う事情と言えるものなのか、そのことが今後、さらに問われる必要があるように思います。
今年も「弁護士観察日記」をお読み頂きましてありがとうございました。来年もよろしくお願い致します。
皆様、よいお年をお迎え下さい。
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ただ、いうまでもないことですが、弁護士の社会的役割としての価値が、ここにきて暴落しているわけではありません。むしろ、この「改革」路線の基本は、ますます役割は重要になり、「価値」は上がるというもので、それはいまだに連呼されている。問題はここにあります。社会的に「価値」があるはずのものが、志望者にとって「価値」がないものとなりつつあるという現実です。
2012年という年を振り返ると、今年ほど、弁護士が、この資格の「価値」という問題に直面していることを実感した年はなかったのではないか、と思えます。つまり、「改革」の結果、本当に弁護士界に人が来なくなるということへの現実味です。また、それと同時に、「価値」を強調する「改革」路線が、同時に前記した意味で資格の「価値」を下げている(もっとも、これが「改革」の隠された目的ではなかったのか、という見方も根強くありますが)という、いわば矛盾も、はっきりした年だったと思います。
「改革」路線が依然こだわり続ける法曹養成の中核としての法科大学院制度、その関係者が唱える合格者増、そして彼ら支持した貸与制。需要がない状態で、志望者にとっての資格の「価値」をさげて、なぜ、学生が集まるのか、法科大学院関係者自身が、首を絞めているということになぜ、気が付かない、という声が聞かれます(「Schulze BLOG」)。
「改革」路線が市場原理にゆだねるという立場に立ちながら、需要の有無においても、それに対して弁護士がとらざるを得ない行動においても、そして志望予定者が食えないところを目指さないことにおいても、なにやら現実に対する認識がチグハグな感じがしてしまうのは、やはり主導者が失敗を認められない、あるいはそうした事情を抱えているからだけではないのか――どうしても、そんな気持ちにさせられた年でもありました。
「分かっているけどやめられない」事情が、現実的に何を犠牲にしようとしているのか、それがその犠牲に見合う事情と言えるものなのか、そのことが今後、さらに問われる必要があるように思います。
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