「経済的自立論」の本当の意味
弁護士会内の論調として、「経済的自立論」とされるものがあります。お金にならない人権問題等の活動をするには、弁護士の経済的な基盤が確保されている必要がある、というその意味では、至極当然な主張です。ところが、それが、弁護士が競争を回避する、そのために増員を回避するためのロジックとされた時、つまり、目的が人権等のお金にならない活動のためではなく、実は、楽して儲ける環境を確保するため、とされた時、弁護士がいう社会に通用しないロジックの代表的なもののような扱いになりました。
このロジックを、かつて当たり前のように使っていた弁護士たちのなかにも、そのことがはっきりして以来、これをあまり口にしなくなった方々が沢山いますし、既に、過去の主張と位置付けている方もいるようです。
このロジックが通用しない、とされるのには、背景があります。
「この理屈は、根本的な弱点をかかえていた。日本では弁護士が少ないために人権救済が行き渡っていない、という批判に耐えられないのだ」
「経済的自立論」について、小林正啓弁護士は著書「こんな日弁連に誰がした?」のなかで、こう言及しています。つまり、このロジックが目的とする、弁護士がもたらす人権救済のメリットの方に、国民がリアリティをもっていない、もしくは不満があるということが、このロジックを飲ませない事情として存在しているということです。
この見方は、正しいと思います。ただ、問題は、「弁護士が少ないために」というところです。では、弁護士を増やせば人権救済が行き渡るはず、というとらえ方がされた結果がどうなったかといえば、現状では「行き渡る」前に、「経済的自立論」が想定したような弁護士が破綻して、この国からいなくなることがはっきりしてきたからです。もちろん、破綻回避のために、「商売」として割り切った対応をする弁護士、そういうマインドをもった弁護士だけが残ったとしても、それもまた仕方がない話になります。
このロジックが通用しない背景には、もう一つ単純かつ重要な点があると思います。それは、弁護士という仕事そのものの、社会的なイメージです。医者・弁護士と並び称せられたステータス、おカネを安定して儲けている職業イメージ。そのイメージの前に、経済的基盤が確保されていなければ、「お金にならない」活動ができない、という言い方そのものが、前記都合のいいロジックにしかとれない、とされる要素があった。弁護士は、既に普通の「商売」のようにカネ儲けをしているではないか、と。
それは弁護士は、「なんだかんだいって儲けている」という見方になり、増員して競争になっても、儲けられるし、儲けているんだから、もっと非採算的な業務だってやっていいんじゃないのか、というとらえ方につながっている。弁護士の社会的な、「儲けている」イメージは、このロジックを決定的に冒頭書いたような、弁護士に都合のいい論理としてとらえられる要素になっています。
そして、このイメージは、貸与制代替可能論、さらにその議論のなかで弁護士側が主張した「おカネ持ちしか法曹になれない」論への批判を後押しし、弁護士側が主張する問題の真意を伝えなくさせることにもつながった観もあります。
同業者のなかにも、このロジックを口にするのがふさわしくない弁護士が存在していることを認識している人は沢山います。はなから「おカネにならない」活動を弁護士の使命感のなかでとらえる気など、さらさらないととれる弁護士が、この言葉を口にするおかしさです。ただ、逆に、まさしくこのロジックのもとに支えられてきた弁護士がいること、さらにそれがなくなった時、この国からどういう同業者たちが消えていくかを知っている弁護士たちも、同様に沢山います。
「経済的自立論」を否定しても、従前のような弁護士の活動が担保できるという発想は、その増員・競争状態のなかでも、弁護士が一定の経済的な基盤をつくれる、それはこの国の潜在的なものを含めたニーズと、弁護士の努力・工夫・発想転換で可能なのだ、という見方によって現実的なものになるはずでした。ところが、「改革」の増員政策の破綻は、そうはならないということ、その見込み違いをはっきりとさせました。見方を変えれば、「改革」は逆に「経済的自立論」の重要性、少なくとも国民から見て、単に「儲けている弁護士」の都合のいい論法という側面からだけからみていては、結局、社会にツケが回ってくることを、証明したのではないかと思えるのです。
「弁護士は、数が多かったり、法律を知っておればいいというものではない。弁護士が、司法の重要な担い手として職務を適正に行うためには、職務の独立性を確保する制度が必要である。そのために、弁護士自治の制度が不可欠であるとされてきた」
「しかし、弁護士自治があれば、弁護士の職務の独立性と適正性が確保されるというものでもないことを十分に認識すべきである。裁判と裁判官の独立のために、裁判官の身分的・経済的保障制度が必要であるとされるのと同様に、弁護士についても、独立と経済的自立が制度的に担保される必要がある。弁護士は、裁判官・検察官と異なり、経済的自立を保障する制度が存在しないのであるから、需給の適切なバランスを保つ政策が不可欠である」
増員政策の破綻がはっきりしたことを受けて、早期に司法試験合格年1000人を求めた、中部弁護士会連合会決議の提案理由のなかで、改めて弁護士の経済的な自立の必要性が書かれています。小林弁護士の前記著書のなかには、この「経済的自立論」が世論に受け入れられないとみた、日弁連主流派が1994年ころまで主張していた同論を「封印した」という記述があります。単純に増員すれば道が開かれるという見方、弁護士の社会的イメージに引きずられ見方、さらに弁護士自身がそれに引きずられる先に、本当にこの社会にとっていいことが待っているのかどうか――。司法におカネを投入する用意がない多くの市民のための弁護士が、この国に存在してもらうために、弁護士の経済的基盤というテーマをもう一度、考え直す必要があります。
ただいま、「弁護士の競争による『淘汰』」「今、必要とされる弁護士」についてもご意見募集中!
投稿サイト「司法ウオッチ」では皆様の意見を募集しています。是非、ご参加下さい。http://www.shihouwatch.com/
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このロジックを、かつて当たり前のように使っていた弁護士たちのなかにも、そのことがはっきりして以来、これをあまり口にしなくなった方々が沢山いますし、既に、過去の主張と位置付けている方もいるようです。
このロジックが通用しない、とされるのには、背景があります。
「この理屈は、根本的な弱点をかかえていた。日本では弁護士が少ないために人権救済が行き渡っていない、という批判に耐えられないのだ」
「経済的自立論」について、小林正啓弁護士は著書「こんな日弁連に誰がした?」のなかで、こう言及しています。つまり、このロジックが目的とする、弁護士がもたらす人権救済のメリットの方に、国民がリアリティをもっていない、もしくは不満があるということが、このロジックを飲ませない事情として存在しているということです。
この見方は、正しいと思います。ただ、問題は、「弁護士が少ないために」というところです。では、弁護士を増やせば人権救済が行き渡るはず、というとらえ方がされた結果がどうなったかといえば、現状では「行き渡る」前に、「経済的自立論」が想定したような弁護士が破綻して、この国からいなくなることがはっきりしてきたからです。もちろん、破綻回避のために、「商売」として割り切った対応をする弁護士、そういうマインドをもった弁護士だけが残ったとしても、それもまた仕方がない話になります。
このロジックが通用しない背景には、もう一つ単純かつ重要な点があると思います。それは、弁護士という仕事そのものの、社会的なイメージです。医者・弁護士と並び称せられたステータス、おカネを安定して儲けている職業イメージ。そのイメージの前に、経済的基盤が確保されていなければ、「お金にならない」活動ができない、という言い方そのものが、前記都合のいいロジックにしかとれない、とされる要素があった。弁護士は、既に普通の「商売」のようにカネ儲けをしているではないか、と。
それは弁護士は、「なんだかんだいって儲けている」という見方になり、増員して競争になっても、儲けられるし、儲けているんだから、もっと非採算的な業務だってやっていいんじゃないのか、というとらえ方につながっている。弁護士の社会的な、「儲けている」イメージは、このロジックを決定的に冒頭書いたような、弁護士に都合のいい論理としてとらえられる要素になっています。
そして、このイメージは、貸与制代替可能論、さらにその議論のなかで弁護士側が主張した「おカネ持ちしか法曹になれない」論への批判を後押しし、弁護士側が主張する問題の真意を伝えなくさせることにもつながった観もあります。
同業者のなかにも、このロジックを口にするのがふさわしくない弁護士が存在していることを認識している人は沢山います。はなから「おカネにならない」活動を弁護士の使命感のなかでとらえる気など、さらさらないととれる弁護士が、この言葉を口にするおかしさです。ただ、逆に、まさしくこのロジックのもとに支えられてきた弁護士がいること、さらにそれがなくなった時、この国からどういう同業者たちが消えていくかを知っている弁護士たちも、同様に沢山います。
「経済的自立論」を否定しても、従前のような弁護士の活動が担保できるという発想は、その増員・競争状態のなかでも、弁護士が一定の経済的な基盤をつくれる、それはこの国の潜在的なものを含めたニーズと、弁護士の努力・工夫・発想転換で可能なのだ、という見方によって現実的なものになるはずでした。ところが、「改革」の増員政策の破綻は、そうはならないということ、その見込み違いをはっきりとさせました。見方を変えれば、「改革」は逆に「経済的自立論」の重要性、少なくとも国民から見て、単に「儲けている弁護士」の都合のいい論法という側面からだけからみていては、結局、社会にツケが回ってくることを、証明したのではないかと思えるのです。
「弁護士は、数が多かったり、法律を知っておればいいというものではない。弁護士が、司法の重要な担い手として職務を適正に行うためには、職務の独立性を確保する制度が必要である。そのために、弁護士自治の制度が不可欠であるとされてきた」
「しかし、弁護士自治があれば、弁護士の職務の独立性と適正性が確保されるというものでもないことを十分に認識すべきである。裁判と裁判官の独立のために、裁判官の身分的・経済的保障制度が必要であるとされるのと同様に、弁護士についても、独立と経済的自立が制度的に担保される必要がある。弁護士は、裁判官・検察官と異なり、経済的自立を保障する制度が存在しないのであるから、需給の適切なバランスを保つ政策が不可欠である」
増員政策の破綻がはっきりしたことを受けて、早期に司法試験合格年1000人を求めた、中部弁護士会連合会決議の提案理由のなかで、改めて弁護士の経済的な自立の必要性が書かれています。小林弁護士の前記著書のなかには、この「経済的自立論」が世論に受け入れられないとみた、日弁連主流派が1994年ころまで主張していた同論を「封印した」という記述があります。単純に増員すれば道が開かれるという見方、弁護士の社会的イメージに引きずられ見方、さらに弁護士自身がそれに引きずられる先に、本当にこの社会にとっていいことが待っているのかどうか――。司法におカネを投入する用意がない多くの市民のための弁護士が、この国に存在してもらうために、弁護士の経済的基盤というテーマをもう一度、考え直す必要があります。
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