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    「経済的な事情」で括る「予備試験」制限の無理

     あいかわらず、「予備試験」をなんとかしろ、という声が聞こえてきます。経済的な事情などで法科大学院に行けない人の制度なのに、そうでない人たちに利用されている、本来の使い方ではないのだ、と。大マスコミが、さんざん不当性の刷り込みにつかっている、まさに「抜け道」というとらえ方に立つものです。なかには、そのルートを使うことを、「心得違い」と決めつけて、「心の貧困」という言葉を宛がう人までいます(「予備試験『抜け道』論者の心底」)。そして、その向こうにあるのは、当然、ここになんらかの制限を加える、つまり「強制」によって、使えなくさせるという方策です。

     これは、ある意味、法科大学院本道主義の立場からは、分かりやすい話です。昨今の予備試験人気を見て、「強制」しなれば本道が利用されなくなるという脅威が背景にあるからです。もちろん、このためには絶対的なこの本道主義の正統性が担保されていなればならないはずですが、これまでも書いてきましたように、この立場の最大の問題は、その理念や「あるべき論」を伴う正統性の話と、「価値」を提供できていないという現実をいったん切り離しているようにとれることです。そのために、必然的にこの発想は、「利用者」の視点を無視することになっている。逆に言えば、「利用者」が決める制度、選択される制度という発想は、結果的に二の次三の次になっているようにとれるのです(「法科大学院への『評価』としての予備試験結果」)。

     ただ、この本道主義を死守したいあまりの、ある種、強引な発想という見方を脇においたとしても、「改革」が設定し、推進者が繰り返す「予備試験」の位置付けには、ずっと違和感がありました。同試験の本来の使い方という部分。経済的な事情で本道を利用できない人のための、あたかも「配慮」のように位置付けがされている部分です。

     経済的な事情というのが、いわば「困窮者」を指しているというならば、その基準は全くあいまいです。さらに経済的に「無理」や「犠牲」を払えば法科大学院に行ける人間が、「価値」との比較考量で、あえて選択しない場合、それは迷わずにリスクが負える人ほど、経済的な条件が恵まれていないという事情を抱えていることにはならないのか、と。そもそもそのような個人の事情にかかわる判断は、たとえ法科大学院や学部に在籍していようが区別がつくわけがありません。リスクを負うつもりで進学しても、先行きの経済不安のなかで、少しでも早く合格を目指すのならば、これはそんなことを考えないで済む人よりも、経済的な事情を抱えているとはいえないと、どうして決めつけられるのでしょうか。

     さらにいえば、このあいまいな「経済的事情」という基準のなかで、「経済力がある」とされる人に、「予備試験」を「受けさせない」という制度設計に無理があるとは誰も思わなかったのでしょうか。打田正俊弁護士が法曹養成制度検討会議のパブリックコメントのなかで、興味深い指摘をしていました(「司法崩壊の危機」)

      「上記の認識(予備試験を有害とみて法曹養成制度を根底から崩すという法科大学院関係者の認識・ブログ主注)は予備試験は経済的困窮者や社会人からの挑戦者の為にあるのだから、学生やローや予備校生の受験は制限すべきであるという意見につながっているが、経済的困窮者や社会人にのみ受験を認めることは、法科大学院修了者ら対する逆差別にあたることを理解していないものである」
      「経済力がある者には、なぜ予備試験は受けさせてはならないのか、経済力を有すれば不利益取り扱いを受忍しなければならないのかを合理的に説明することなど出来る筈がない。経済力がない人『でも』受験できる制度を作るということは許されても、経済力がない人『しか』受験させない制度を作るということは許されてはならない。生活力がない人にだけ社会保障措置をほどこすこととは、訳が違うのである」

     打田弁護士は前記したような経済力の有無についても、審査は「技術的には不可能であることは明らか」として、こうした議論をしている法律家にあきれ返っています。当初の制度設計の議論のなかでも、これらの当然の疑問点が正面から取り上げられたという話を聞いた記憶がありません。それがなぜなのかを、あえて今、推測するならば、それはこんな疑問に目が向けられることもないくらい、本道の方が成功を収めてくれるのではないかという希望的観測が、「改革」推進者の頭を埋め尽くしていたのではないか、ということくらいしか考えられません。

     もちろん、そうなれば、現在のような、「利用者の視点」無視とか、利用されなくなる脅威による「強制」がクローズアップされることもなかったかもしれません。ただ、それもまた、今となれば、もともと「無理」がある強引な制度のあり得ない未来だった、というしかありません。


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    テーマ : 資格試験
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    経済的事情という要件自体が非常に曖昧というのも問題です。

    まず、経済的に法科大学院に通うことが出来るのは、ほとんどの場合、学生自身に経済力があるからではなく、その親に経済力があるからでしょう。
    経済的に余裕があっても、親は、大学を卒業した20歳過ぎの子供に法科大学院に通わせるお金を捻出しないと決断する自由はあるはずです。そのような場合に、経済的事情という要件を充たさないから予備試験を受験させないというのでしょうか。親に法科大学院に通う費用を捻出する義務があるというのでしょうか。子供が親に対して法科大学院学費捻出するよう訴訟でも起こさなければならないのでしょうか。

    事例を変えて、大学生が相続などで、おじいさんの土地を他の相続人と共有したので2000万円の価値のある財産を持っているけれども、現金化するのが非常に難しい場合があったとしましょう。この場合は、経済的事情という要件をみたさないのでしょうか?

    事例をさらに変えて、孫のことを思うおじいさんが贈与をしたため、1000万円の預金があったとしましょう。孫が経済的事情という要件を充たさないから予備試験を受けられなくなったりしたら、おじいさんは孫に恨まれるでしょうね。

    例えば、経済的事情の要件を充たしますという宣誓書を受験者に署名させることとしましょう。予備試験を合格し、司法試験を合格し、修習を済ませたあと、実は、隠し預金があり、1000万円があったことが判明したとしましょう。資格を剥奪するのでしょうか。

    法律家であれば、このような具体的な事情を考えてそれらの場合にどう判断することになるのか、内容を示したうえでなければ、経済的事情によって受験を制限するという議論は出来ないのではないでしょうか。
    プロフィール

    河野真樹

    Author:河野真樹
    司法ジャーナリスト。法律家向け専門紙「週刊法律新聞」の記者・編集長として約30年間活動。コラム「飛耳長目」執筆。2010年7月末で独立。司法の真の姿を伝えることを目指すとともに、司法に関する開かれた発言の場を提供する、投稿・言論サイト「司法ウオッチ」主宰。http://www.shihouwatch.com/
    妻・一女一男とともに神奈川県鎌倉市在住。

    旧ブログタイトル「元『法律新聞』編集長の弁護士観察日記」


    河野真樹
    またまたお陰さまで第3弾!「司法改革の失敗と弁護士~弁護士観察日記Part3」
    河野真樹
    お陰さまで第2弾!「破綻する法科大学院と弁護士~弁護士観察日記Part2」
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    「大増員時代の弁護士~弁護士観察日記Part1」

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