激増政策を牽引した「ニーズ」とストーリー
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
新年にふさわしく、何か明るい話題でも、と探しても、なかなか見当たらないのが今の弁護士界とその周辺です。聞こえてくるのは、「改革」の影響に関する悲観的な見方か、ため息交じりの諦めの声。よく会う中堅弁護士は、「明るい話がない」が、もはや決まり文句のようになっています。
彼らを暗い気持ちにさせているのは、主に司法試験合格年「3000人」の旗は降ろされても、どうにもとまらない弁護士増。「改革」の象徴たる目標が降ろされても、すべては現状「2000人」で起きていること。これが維持されるとあれば、就職難は続き、そして業務拡大が飛躍的に実現することなどあり得ないことを実感している側からすれば、ため息が出てしまうのも当然です。
そして、さらには、この増員政策を支える目論見だった法科大学院が、もはや明らかに、この世界を目指す志望者たちを遠ざけ、人材という意味でも、日弁連はそれを止めることもできないばかりか、このままでは地獄の底まで「改革」路線にお付き合いする気配。
「福岡の家電弁護士のブログ」が、今年の業界展望を掲載していますが、まさに的確な指摘だと思います。こうした状況を反映してか、目の前に迫っている日弁連会長選挙に対しても、冷めた意見ばかりが弁護士界のなかから聞こえてきます。
ただ、もう一つ肝心なことは、果たしてこれは、弁護士がいる業界だけを暗い気にさせる話なのか、ということです。結果として厳しい生存競争を突き付けられている弁護士が暗い思いをする代わりに、利用者には明るい未来が提供される――。「改革」推進論者は、当然、そう描きたいところですが、実はそういう話でもありません。弁護士あるいは弁護士界が犠牲になって、何かが果たして生まれるのか、そこがもう一度、問われなれければなりません。
1999年10月から2000年6月まで、司法改革論議が華やかだった、まさに「改革の季節」に、日本経済新聞が33回にわたり連載した「司法 経済は問う」というシリーズがあります。「改革」路線礼賛に彩られた、このシリーズの特徴は、例の東京・霞が関の近代的な新弁護士会館を、その体質に絡めて「ギルドの塔」と呼ばれていると紹介したことにも表れているように、弁護士・会のこれまで姿勢に厳しい目線を向けたところにあり、そして、そこにはいわゆる供給制限論、要は「数」の問題が根本的にすえられてもいました。
ただ、このシリーズは同年、加筆のうえ同タイトルで一冊の本にまとめられていますが、それを今、読み返してみれば、当時のこうした議論のスタンスそのものの偏りが、当時よりもはっきりと見えてきます。
「経済社会に打ち寄せる変革の波が、法的サービスの需要を爆発的に増やしている」
「法律サービスは経済社会のインフラであり、法曹人口の拡大でもユーザーの意見が尊重されるべきだろう」
この中で、「経済社会」という枠組みで語られたのは、膨大な企業ニーズでした。このシリーズは、本紙の性格を反映しているとはいえ、この連想そのものが、「数」をめぐる当時の議論を象徴しているように思えます。14年後の今、これを見れば、一体、これはどこの話かといいたくなる人もいると思いますが、あくまで企業、しかも大企業ニーズを、あたかも社会全体のニーズのように敷衍する論法が当時使われていたことが分かります。
「弁護士界の自縛――市場拡大に追いつけず」という見出しも登場します。弁護士界が供給制限する数では、拡大する市場に追いつかないと当時は描かれていました。今、市場の拡大が追いついていないといわれている14年後の世界からみると奇妙な気持ちになります。弁護士の拡大がいつのまにか追いつけなかったはずの市場拡大に追いつくどころか、追い越してしまった、ということでしょうか。そうではないでしょう。「欲しい」人たちの声が極端に反映した「数」の想定が、「改革」全体をゆがんだものにしてしまったというべきです。
「もともと『企業法務を支える弁護士が少ない』との不満が根強く、弁護士を増員するためにもロースクールは必要だという議論がある」
「ロースクールは、法曹人の質的向上、量の拡大という二つの課題に同時に答えを出せるとみられている」
こんな記述も登場します。ここには、法曹人口増員―新法曹養成とつながる、一つのストーリーとも言いたくなるものがあります。一般化できない、ある層の「目的」のために、増員も新法曹養成も「必要」と描かれたような。そこでは、このシリーズを読む限り、「ゼロワン」解消も、アクセス障害の除去も、この流れを正当化するための脇役のような印象を持ちます。これも、実は「改革」の実体を象徴していたように思えます。
「数」の問題は、「改革」の根っこにあったというべきです。法曹人口激増政策は、当然、これまでの司法研修所中心の法曹養成にメスをいれることを余儀なくさせ、その向こうに法科大学院導入につながり、その一方で、弁護士の業態や、対権力といったポジションも含めた、根本的な変革を促す。改革推進派にとって、ここは大きなポイントであり、同時に課題だったというべきです。なぜなら、「数」に関しては、弁護士・会が強力に反発することも予想されたからです。
結果は、弁護士内「改革」派による、いわば「無血開城」。自ら「市民のため改革」に弁護士会が打って出る、そのなかで、増員を含めた弁護士自らの「改革」を「登山口」と受けとめるという、いわば自覚に基づき「改革」路線が主体的に選択された。外からみれば、「選択させる」ことに成功した、ということになります。「市民のための改革」という弁護士会が飛び付いたストーリーには、本当は別のストーリーがあったのです。
「日弁連・弁護士会はいつまで付き合うんだろう」。冒頭の冷めた弁護士の意見のなかには、今、こんな声がしばしば混じります。その向こうには、「改革」の表向こうで言われることと裏腹に、今、強いられている「改革」と弁護士の自己犠牲が、一体、何のための、そして誰のためのものなのか、もはや実感できなくなっている姿があります。このことは、もはや「改革」の実害を被るかもしれない、私たちにとっても、決して無縁なテーマではないはずです。
投稿サイト「司法ウオッチ」は全面無料化・リニュアルしました。「弁護士データバンク」も無料で登録できます。ただいま、「今、必要とされる弁護士」「今、必要とされる弁護士」についてもご意見募集中!皆様の意見をお待ちしております。是非、ご参加下さい。http://www.shihouwatch.com/
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新年にふさわしく、何か明るい話題でも、と探しても、なかなか見当たらないのが今の弁護士界とその周辺です。聞こえてくるのは、「改革」の影響に関する悲観的な見方か、ため息交じりの諦めの声。よく会う中堅弁護士は、「明るい話がない」が、もはや決まり文句のようになっています。
彼らを暗い気持ちにさせているのは、主に司法試験合格年「3000人」の旗は降ろされても、どうにもとまらない弁護士増。「改革」の象徴たる目標が降ろされても、すべては現状「2000人」で起きていること。これが維持されるとあれば、就職難は続き、そして業務拡大が飛躍的に実現することなどあり得ないことを実感している側からすれば、ため息が出てしまうのも当然です。
そして、さらには、この増員政策を支える目論見だった法科大学院が、もはや明らかに、この世界を目指す志望者たちを遠ざけ、人材という意味でも、日弁連はそれを止めることもできないばかりか、このままでは地獄の底まで「改革」路線にお付き合いする気配。
「福岡の家電弁護士のブログ」が、今年の業界展望を掲載していますが、まさに的確な指摘だと思います。こうした状況を反映してか、目の前に迫っている日弁連会長選挙に対しても、冷めた意見ばかりが弁護士界のなかから聞こえてきます。
ただ、もう一つ肝心なことは、果たしてこれは、弁護士がいる業界だけを暗い気にさせる話なのか、ということです。結果として厳しい生存競争を突き付けられている弁護士が暗い思いをする代わりに、利用者には明るい未来が提供される――。「改革」推進論者は、当然、そう描きたいところですが、実はそういう話でもありません。弁護士あるいは弁護士界が犠牲になって、何かが果たして生まれるのか、そこがもう一度、問われなれければなりません。
1999年10月から2000年6月まで、司法改革論議が華やかだった、まさに「改革の季節」に、日本経済新聞が33回にわたり連載した「司法 経済は問う」というシリーズがあります。「改革」路線礼賛に彩られた、このシリーズの特徴は、例の東京・霞が関の近代的な新弁護士会館を、その体質に絡めて「ギルドの塔」と呼ばれていると紹介したことにも表れているように、弁護士・会のこれまで姿勢に厳しい目線を向けたところにあり、そして、そこにはいわゆる供給制限論、要は「数」の問題が根本的にすえられてもいました。
ただ、このシリーズは同年、加筆のうえ同タイトルで一冊の本にまとめられていますが、それを今、読み返してみれば、当時のこうした議論のスタンスそのものの偏りが、当時よりもはっきりと見えてきます。
「経済社会に打ち寄せる変革の波が、法的サービスの需要を爆発的に増やしている」
「法律サービスは経済社会のインフラであり、法曹人口の拡大でもユーザーの意見が尊重されるべきだろう」
この中で、「経済社会」という枠組みで語られたのは、膨大な企業ニーズでした。このシリーズは、本紙の性格を反映しているとはいえ、この連想そのものが、「数」をめぐる当時の議論を象徴しているように思えます。14年後の今、これを見れば、一体、これはどこの話かといいたくなる人もいると思いますが、あくまで企業、しかも大企業ニーズを、あたかも社会全体のニーズのように敷衍する論法が当時使われていたことが分かります。
「弁護士界の自縛――市場拡大に追いつけず」という見出しも登場します。弁護士界が供給制限する数では、拡大する市場に追いつかないと当時は描かれていました。今、市場の拡大が追いついていないといわれている14年後の世界からみると奇妙な気持ちになります。弁護士の拡大がいつのまにか追いつけなかったはずの市場拡大に追いつくどころか、追い越してしまった、ということでしょうか。そうではないでしょう。「欲しい」人たちの声が極端に反映した「数」の想定が、「改革」全体をゆがんだものにしてしまったというべきです。
「もともと『企業法務を支える弁護士が少ない』との不満が根強く、弁護士を増員するためにもロースクールは必要だという議論がある」
「ロースクールは、法曹人の質的向上、量の拡大という二つの課題に同時に答えを出せるとみられている」
こんな記述も登場します。ここには、法曹人口増員―新法曹養成とつながる、一つのストーリーとも言いたくなるものがあります。一般化できない、ある層の「目的」のために、増員も新法曹養成も「必要」と描かれたような。そこでは、このシリーズを読む限り、「ゼロワン」解消も、アクセス障害の除去も、この流れを正当化するための脇役のような印象を持ちます。これも、実は「改革」の実体を象徴していたように思えます。
「数」の問題は、「改革」の根っこにあったというべきです。法曹人口激増政策は、当然、これまでの司法研修所中心の法曹養成にメスをいれることを余儀なくさせ、その向こうに法科大学院導入につながり、その一方で、弁護士の業態や、対権力といったポジションも含めた、根本的な変革を促す。改革推進派にとって、ここは大きなポイントであり、同時に課題だったというべきです。なぜなら、「数」に関しては、弁護士・会が強力に反発することも予想されたからです。
結果は、弁護士内「改革」派による、いわば「無血開城」。自ら「市民のため改革」に弁護士会が打って出る、そのなかで、増員を含めた弁護士自らの「改革」を「登山口」と受けとめるという、いわば自覚に基づき「改革」路線が主体的に選択された。外からみれば、「選択させる」ことに成功した、ということになります。「市民のための改革」という弁護士会が飛び付いたストーリーには、本当は別のストーリーがあったのです。
「日弁連・弁護士会はいつまで付き合うんだろう」。冒頭の冷めた弁護士の意見のなかには、今、こんな声がしばしば混じります。その向こうには、「改革」の表向こうで言われることと裏腹に、今、強いられている「改革」と弁護士の自己犠牲が、一体、何のための、そして誰のためのものなのか、もはや実感できなくなっている姿があります。このことは、もはや「改革」の実害を被るかもしれない、私たちにとっても、決して無縁なテーマではないはずです。
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