弁護士に対する「無理」への認識
漫画家の吉田戦車氏が昨年ツイッターで、「アンパンマン」の原作者として知られ、94歳で亡くなった、漫画家・やなせたかし氏に、キャラクターデザインを無償で引き受けてもらっていた自治体や組織の対応を「恥じろ」と批判したことが、ネット上で話題になりました。
この一件に絡めて、向原栄太朗弁護士が最近、フェイスブックでこんな一文を発信しています。
「弁護士のタダ働きに甘えてそれをいいことに公益とか言ってなんでもタダでやらすのはやめるべき」
ある意味、もっともな主張であり、また、今の多くの弁護士の実は本音ではないか、とも思います。サービスを支える、当然の「対価」という問題が、なぜか弁護士については、あいまいなまま、ニーズが沢山あるとか、「小さなことでもやります」的なアピールばかりが、弁護士会サイドから流れ続けている現実。前記の一件で、吉田氏は、「タダで引き受けまくった」やなせ氏の対応も、「よくなかったかもしれない」としていましたが、向原氏の言は、頼む方に「恥じろ」というよりも、やはり「やらせる」方を問題視したものととれます。
ただ、あえていえば、両者には違いがあります。いうまでもないことかもしれませんが、やなせ氏問題の方は、あくまで「大御所」への処遇、あるいは非礼の問題であり、と同時にその「好意」に甘えた発注者側の認識の問題です。漫画家全体の処遇でもありませんし、片や「大御所」弁護士への処遇を問題視しているわけでもありません。あくまで前者はその一対一の関係であり、社会全体の業種に対する、あるいは業種側の社会に対する「心得違い」を言っているわけではない。
つまり、前者は本来、やなせ氏自身、納得してやったことならば、第三者がとやかくいうことではないけれど、その第三者からみても、あまりにひどいじゃないか、という話であり、そこは社会的な理解においても許さない方がいい、そこは発注者側が配慮すべきという、大きな前提があるようにとれます。
実は、ここに一番、大きな違いがあるというべきです。つまり、「公益」という枠組みで、弁護士をして無償、もしくは無償性の高いサービスに従事させることを、弁護士に対する「不当」な処遇として、発注者側が配慮すべきという認識が社会に果たしてどこまで存在しているのか、ということです。要は、もし、弁護士を他のサービス業と同一視するのであれば、当然ともいえる認識が、こと弁護士についてどれだけ社会に存在しているのか、という問題です。
「好意」の部分については、やなせ氏同様、それを自覚的に引き受けるということに、それこそ弁護士の中にも、大きな意識のバラツキがあります。それは、それこそ「弁護士」をしているということの意味性、あるいは法律で掲げている「人権擁護」や「社会正義の実現」という使命への理解の仕方でも大きく違います。
もちろん、「引き受ける人間もいる」という前提でこれを一般化できるわけもなく、むしろこれは、それこそ「対価」を必要とする事業者の立場を考えれば、むしろ当然の理解が前提になってよさそうなものです。ところが、弁護士はどうもそうではない。そのことを、多くの弁護士が感じ出しているようにみえます。
ただ、あえてここで問わなければならないことがあります。では、本当に社会は、そのある意味、事業者としては当然の弁護士の主張を受け入れるだけでいいのか、ということです。弁護士が一サービス業として腹をくくるということは、はっきりいえば無償、もしくは無償性の高い社会的ニーズには、これまでのようにはこたえない、ということです。その部分はどうするのか。
それは、もはやサービス業として弁護士業とは関係ない、欠落は欠落と割り切るというのであれば、話はそこで終わりです。しかし、社会にある無償、無償性の高いニーズは、果たしてすべて発注者側の「心得違い」の、「タダならやってくる」という非常識なものとして処理されていいのですね、ということを問いたくなるのです。
このなかには、従来、「好意」ということもさることながら、現実的な経済環境もとで「やれてきた」部分があります。いわゆる人権擁護活動に限らず、個々の案件で採算性が落ちても引き受けられる部分が確かに弁護士には存在していた。もし、そこをいままでのように弁護士に助けてもらいたい、というのであれば、前記サービス業としての当然の主張を前提に、成り立たせる環境を考えなければなりません。そのことを社会が分かっているのか、ということです。
なぜ、こういうことになっているのか。その責任は、この「改革」と、弁護士会にあると思います。端的にいえば、肝心のこの部分を両者がはっきりと社会に提示していないからです。
この「改革」は弁護士の「公益」な性格を社会的責任として強調しています。そして、それは基本的には、「当事者主義訴訟構造の下での精力的な訴訟活動など諸種の職務活動」で、「頼もしい権利の護り手」として、「職業倫理を保持しつつ依頼者(国民)の正当な権利利益の実現に奉仕することを通じて実践される」(司法制度改革審議会最終意見書)としています。この「改革」の根本的な発想には、ちょっと奇妙な気持ちにさせられます。「改革」は、弁護士の公益性は、個々の訴訟活動によって支えられることを言っているように思えます。であるならば、当然、その環境が「公益性」を左右することを分かっているのではないか、と。
だとするならば、増員政策やその先にある競争・淘汰が、その環境を破壊する現実がはっきりしている今、この「改革」の発想はどうとらえるべきでしょうか。一見、「公益性」の土台を揺るがす、真逆のことを「改革」が推し進めているようにとれます。ただ、嫌な感じがするのは、「精力的な」とか「職業倫理を保持しつつ」とか「奉仕する」といった、弁護士側の姿勢に転換できそうな文言です。つまり、「改革」の先に、弁護士の「一サービス業」と割り切る自覚が登場しても、そこでも前記したような心構えや努力次第では、弁護士は一事業者でありながら「公益性」を維持し、それを支えきれるといっているようにとれるからです。
そして、弁護士会もこの発想の無理をいうわけでもなく、これまでの会員の奉仕的なもので支えられるスタイルが維持できる、という基本的な立場に立っているように見えます。つまりは、「改革」の無理と、それが「公益性」の前提となる環境を破壊していることをいい、「これまでのようにはできなくなる、それでもいいのか」ということをはっきりと提示していないのです。そして、前提となる環境整備の必要性を強調せず、依然、無償性の問題をあいまいにしたまま、これまでのスタンスを維持するために、高い会費を徴収することに対して、いよいよ会内のコンセンサスも得られなくなりつつある、というのが弁護士会の現実です。
ただ、あくまで「これでいいのか」を突き付けられているのは、私たちです。結局、気が付けば、ビジネスと割り切り、採算性の追求を当然の前提に考える「普通の」事業者としては、ある意味、常識にかなった弁護士が、この国に満たされたとき、それがかつてのこの国の弁護士という存在より、よくなった、ありがたいと、私たちは素直にいえるのかどうか。かつては「好意」に甘えた恥ずべきことをしていただけなんだ、と――。
かつてが非常識であり、昔のようなスタイルで弁護士の仕事はできない、ということをいう弁護士はいまや沢山います。彼らに無理をさせることは、もはやできません。でも、これは「改革」が描いたキレイな絵とは違います。はっきりと、欠落するものがあることを私たちは認識しているのでしょうか。その時が来て、「こんなはずしゃなかった」「以前の日本の弁護士の方がよかった」「行き場所がない」といってみても、すべては手遅れです。
「司法ウオッチ」では、現在、以下のようなテーマで、ご意見を募集しています。よろしくお願い致します。
【法テラス】弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。
【弁護士業】いわゆる「ブラック事務所(法律事務所)」の実態ついて情報を求めます。
【刑事司法】全弁協の保釈保証書発行事業について利用した感想、ご意見をお寄せ下さい。
【民事司法改革】民事司法改革のあり方について、意見を求めます。
【法曹養成】「予備試験」のあり方をめぐる議論について意見を求めます。
【弁護士の質】ベテラン弁護士による不祥事をどうご覧になりますか。
【裁判員制度】裁判員制度は本当に必要だと思いますか
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この一件に絡めて、向原栄太朗弁護士が最近、フェイスブックでこんな一文を発信しています。
「弁護士のタダ働きに甘えてそれをいいことに公益とか言ってなんでもタダでやらすのはやめるべき」
ある意味、もっともな主張であり、また、今の多くの弁護士の実は本音ではないか、とも思います。サービスを支える、当然の「対価」という問題が、なぜか弁護士については、あいまいなまま、ニーズが沢山あるとか、「小さなことでもやります」的なアピールばかりが、弁護士会サイドから流れ続けている現実。前記の一件で、吉田氏は、「タダで引き受けまくった」やなせ氏の対応も、「よくなかったかもしれない」としていましたが、向原氏の言は、頼む方に「恥じろ」というよりも、やはり「やらせる」方を問題視したものととれます。
ただ、あえていえば、両者には違いがあります。いうまでもないことかもしれませんが、やなせ氏問題の方は、あくまで「大御所」への処遇、あるいは非礼の問題であり、と同時にその「好意」に甘えた発注者側の認識の問題です。漫画家全体の処遇でもありませんし、片や「大御所」弁護士への処遇を問題視しているわけでもありません。あくまで前者はその一対一の関係であり、社会全体の業種に対する、あるいは業種側の社会に対する「心得違い」を言っているわけではない。
つまり、前者は本来、やなせ氏自身、納得してやったことならば、第三者がとやかくいうことではないけれど、その第三者からみても、あまりにひどいじゃないか、という話であり、そこは社会的な理解においても許さない方がいい、そこは発注者側が配慮すべきという、大きな前提があるようにとれます。
実は、ここに一番、大きな違いがあるというべきです。つまり、「公益」という枠組みで、弁護士をして無償、もしくは無償性の高いサービスに従事させることを、弁護士に対する「不当」な処遇として、発注者側が配慮すべきという認識が社会に果たしてどこまで存在しているのか、ということです。要は、もし、弁護士を他のサービス業と同一視するのであれば、当然ともいえる認識が、こと弁護士についてどれだけ社会に存在しているのか、という問題です。
「好意」の部分については、やなせ氏同様、それを自覚的に引き受けるということに、それこそ弁護士の中にも、大きな意識のバラツキがあります。それは、それこそ「弁護士」をしているということの意味性、あるいは法律で掲げている「人権擁護」や「社会正義の実現」という使命への理解の仕方でも大きく違います。
もちろん、「引き受ける人間もいる」という前提でこれを一般化できるわけもなく、むしろこれは、それこそ「対価」を必要とする事業者の立場を考えれば、むしろ当然の理解が前提になってよさそうなものです。ところが、弁護士はどうもそうではない。そのことを、多くの弁護士が感じ出しているようにみえます。
ただ、あえてここで問わなければならないことがあります。では、本当に社会は、そのある意味、事業者としては当然の弁護士の主張を受け入れるだけでいいのか、ということです。弁護士が一サービス業として腹をくくるということは、はっきりいえば無償、もしくは無償性の高い社会的ニーズには、これまでのようにはこたえない、ということです。その部分はどうするのか。
それは、もはやサービス業として弁護士業とは関係ない、欠落は欠落と割り切るというのであれば、話はそこで終わりです。しかし、社会にある無償、無償性の高いニーズは、果たしてすべて発注者側の「心得違い」の、「タダならやってくる」という非常識なものとして処理されていいのですね、ということを問いたくなるのです。
このなかには、従来、「好意」ということもさることながら、現実的な経済環境もとで「やれてきた」部分があります。いわゆる人権擁護活動に限らず、個々の案件で採算性が落ちても引き受けられる部分が確かに弁護士には存在していた。もし、そこをいままでのように弁護士に助けてもらいたい、というのであれば、前記サービス業としての当然の主張を前提に、成り立たせる環境を考えなければなりません。そのことを社会が分かっているのか、ということです。
なぜ、こういうことになっているのか。その責任は、この「改革」と、弁護士会にあると思います。端的にいえば、肝心のこの部分を両者がはっきりと社会に提示していないからです。
この「改革」は弁護士の「公益」な性格を社会的責任として強調しています。そして、それは基本的には、「当事者主義訴訟構造の下での精力的な訴訟活動など諸種の職務活動」で、「頼もしい権利の護り手」として、「職業倫理を保持しつつ依頼者(国民)の正当な権利利益の実現に奉仕することを通じて実践される」(司法制度改革審議会最終意見書)としています。この「改革」の根本的な発想には、ちょっと奇妙な気持ちにさせられます。「改革」は、弁護士の公益性は、個々の訴訟活動によって支えられることを言っているように思えます。であるならば、当然、その環境が「公益性」を左右することを分かっているのではないか、と。
だとするならば、増員政策やその先にある競争・淘汰が、その環境を破壊する現実がはっきりしている今、この「改革」の発想はどうとらえるべきでしょうか。一見、「公益性」の土台を揺るがす、真逆のことを「改革」が推し進めているようにとれます。ただ、嫌な感じがするのは、「精力的な」とか「職業倫理を保持しつつ」とか「奉仕する」といった、弁護士側の姿勢に転換できそうな文言です。つまり、「改革」の先に、弁護士の「一サービス業」と割り切る自覚が登場しても、そこでも前記したような心構えや努力次第では、弁護士は一事業者でありながら「公益性」を維持し、それを支えきれるといっているようにとれるからです。
そして、弁護士会もこの発想の無理をいうわけでもなく、これまでの会員の奉仕的なもので支えられるスタイルが維持できる、という基本的な立場に立っているように見えます。つまりは、「改革」の無理と、それが「公益性」の前提となる環境を破壊していることをいい、「これまでのようにはできなくなる、それでもいいのか」ということをはっきりと提示していないのです。そして、前提となる環境整備の必要性を強調せず、依然、無償性の問題をあいまいにしたまま、これまでのスタンスを維持するために、高い会費を徴収することに対して、いよいよ会内のコンセンサスも得られなくなりつつある、というのが弁護士会の現実です。
ただ、あくまで「これでいいのか」を突き付けられているのは、私たちです。結局、気が付けば、ビジネスと割り切り、採算性の追求を当然の前提に考える「普通の」事業者としては、ある意味、常識にかなった弁護士が、この国に満たされたとき、それがかつてのこの国の弁護士という存在より、よくなった、ありがたいと、私たちは素直にいえるのかどうか。かつては「好意」に甘えた恥ずべきことをしていただけなんだ、と――。
かつてが非常識であり、昔のようなスタイルで弁護士の仕事はできない、ということをいう弁護士はいまや沢山います。彼らに無理をさせることは、もはやできません。でも、これは「改革」が描いたキレイな絵とは違います。はっきりと、欠落するものがあることを私たちは認識しているのでしょうか。その時が来て、「こんなはずしゃなかった」「以前の日本の弁護士の方がよかった」「行き場所がない」といってみても、すべては手遅れです。
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【法テラス】弁護士、司法書士からみた、法テラスの現状の問題点について、ご意見をお寄せ下さい。
【弁護士業】いわゆる「ブラック事務所(法律事務所)」の実態ついて情報を求めます。
【刑事司法】全弁協の保釈保証書発行事業について利用した感想、ご意見をお寄せ下さい。
【民事司法改革】民事司法改革のあり方について、意見を求めます。
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