弁護士の「魅力」をめぐる要求が示すもの
弁護士という仕事の「魅力」に関して、相変わらず、弁護士に向けられた要求が目につきます。もっと魅力を発信せよ、とか、魅力向上に努めよ、とか。30年くらい弁護士・会をウオッチしてきて、彼らがいまほどそうした要求にさらされたのを見たことがありません。いまでもなく、「改革」の増員政策による経済的激変で、弁護士の職業的魅力が減退し、それが法科大学院制度の負担とともに、志望者を遠ざける要因になっている、という認識が、その要求の背景にあります(「弁護士の『魅力』発信を求める真意」)。
しかし、実はこれらの要求に、具体的展望があるかといえば、そうはみえません。弁護士という仕事の魅力についての考えを、個々の弁護士に聞けば、肯定的な意見は返ってきます。仕事の面白みややりがい、人権問題やその救済に携わる思いから、法律的知識を駆使して問題を解決していく醍醐味まで、さまざまな魅力は語られます。ただ、それらは経済的な裏打ち、当然、この仕事が経済的に成り立つという前提のうえに立つものです。
弁護士が食えていける、ということが疑いようもない時代はそれでよかった。というよりも、別の言い方をすれば、経済的妙味=魅力は語らずとも、当たり前に付いてきていたというべきかもしれません。仕事の魅力は語れても、その前提が崩れている時代に、果たしてこの仕事を勧められるのか、という迷いを現役弁護士のなかにみるのです。
仕事の魅力を語れても、それを支える経済的な安定性や妙味を含め、他分野よりも魅力を語れるのか、前提抜きに、また、その見通しもないまま、それを語るのは無責任ではないか、ということです。
そうではない、そもそも経済的魅力をもっと発信すべきなのだ、という取り方ももちろんできます。ただ、その場合、仕事の魅力といいながら、もはや求められているのは「成功例」ということになります。つまり、私はこんな仕事をやり、こんなに安定しています、豊かです。あるいは、こういう分野ならば、こんな経済的妙味とともにやりがいがついてきます、というような。弁護士会内の「改革」推進のなかから聞こえてくるのも、「魅力」といいながら、実は要求の中身はこちらのようにとれます。
ただ、「改革」の現実を知っている良心的な弁護士ほど、これを必ずしも歓迎しているようにみえません。「生存バイアス」的な扱いが、「改革」や弁護士という仕事の現実を誤解させるのではないか、と考えるからです。アウトリーチを含めた努力、アイデアが成果を出しているとか、特定分野で安定した経済環境を築けているというエピソードを前提にした「魅力」は、個々に与えられた境遇やチャンスから生み出された場合もあり、また、そこに新たにどれだけの人間が参入できる経済的なキャパシティがあるかも不透明な面があります。そこを飛び越えて、旧来の「前提」があった時代の弁護士イメージとつなげて、なんとかなる、ととられかねない話をしていいのかどうか。
つまり、それで仮に業界を輝かせても、その責任を発信者が負うわけではなく、選択者の自己責任で片付ける。そのことへの不誠実さのようなものを口にする弁護士は少なくないのです。
魅力の向上という要求は、主に弁護士が能力的に既存のニーズにこたえろ、つまりは、もっと活用される存在になれ、という文脈で登場します。ミスマッチ論のように、本来、ニーズが存在していることを前提に、弁護士側の能力を含めた態勢が、そこにたどり着けていないということをイメージさせるものです。
「改革」推進派、特に増員路線維持を主張する側がしばしば取り上げる切り口です。ただ、実際に必要とする側がどのくらいの規模の弁護士を経済的に成り立たせる範囲で必要としているのか、について、決定的な不透明感がつきまとっています。まだまだある、もっと増やすべきという論調が繰り返し述べられても、経済的なキャパシティについて、何も保証するわけではない無責任さがあります。要は、うちは必要だ、私の知っている分野は必要としている、という話で、弁護士業態全体にかかわる増員規模を議論できるのか、ということです。
最近も10月5日付けの産経新聞が「法曹養成 活躍の場増やす努力せよ」というタイトルの社説を、こんな一文で締め括っています。
「政府は司法試験合格者年3千人という当初目標の下方修正を余儀なくされ、今年は1500人以上の目標をかろうじて上回った。弁護士会の中から、こうした目標を『大幅に減らすべきだ』との声があるが、疑問だ」
「弁護士や裁判官などの地域的偏在は解決されていない。災害被災地など長期的、組織的な法律家の支援を必要としている場がある。高齢者や子供を守る法曹の支援の重要性は増している。企業や官公庁、国際舞台で法律知識と交渉力を持つ人材が望まれている」
「弁護士会はこうした現状をみつめ、もっと活躍の場を広げ、法曹の仕事の意義や魅力アップの方策を考えてはどうか」
合格率が低迷し、合格しても「弁護士余り」、法曹離れ、結果を出せない法科大学院の再編という一通りの現状認識のうえに、タイトルのように、法曹の活躍する場がなければ、志望者は戻って来ないということもどうやら分かっていながら、「弁護士余り」を引き起こしている増員路線はそのままに、裁判官の問題にも言及しながら、なぜか弁護士会にだけ「魅力アップ」の要求を突き付けています。
そして、列挙されている「活躍の場」と想定しているものは、この手の新聞論調にお決まりの、どうやって経済的に支えるのかが不透明か、キャパが不透明なもの。どうしても必要な無償性の高いニーズならば、当然、経済的担保の議論の必要性が示唆されてもいいように思いますが、そこは弁護士が自力でなんとかしろという話です。ミスマッチの責任を法曹養成の中核たる法科大学院が背負うべき、というのならばまだ分かりますが、そういう話は一言もありません。
結局、これらの弁護士の「魅力」をめぐる要求は、果たして意味があるのでしょうか。少なくとも二つのことかいえるのではないでしょうか。一つは、前記社説が物語るように、その論調は増員政策と法科大学院制度という本丸にメスを入れない前提で繰り出されていること。そして、もう一つは、こうした「改革」の無理と展望なき論調も含めた、この世界の姿を見切った結果もまた、現在の志望者減、法曹離れにつながっていると推測できることです。
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しかし、実はこれらの要求に、具体的展望があるかといえば、そうはみえません。弁護士という仕事の魅力についての考えを、個々の弁護士に聞けば、肯定的な意見は返ってきます。仕事の面白みややりがい、人権問題やその救済に携わる思いから、法律的知識を駆使して問題を解決していく醍醐味まで、さまざまな魅力は語られます。ただ、それらは経済的な裏打ち、当然、この仕事が経済的に成り立つという前提のうえに立つものです。
弁護士が食えていける、ということが疑いようもない時代はそれでよかった。というよりも、別の言い方をすれば、経済的妙味=魅力は語らずとも、当たり前に付いてきていたというべきかもしれません。仕事の魅力は語れても、その前提が崩れている時代に、果たしてこの仕事を勧められるのか、という迷いを現役弁護士のなかにみるのです。
仕事の魅力を語れても、それを支える経済的な安定性や妙味を含め、他分野よりも魅力を語れるのか、前提抜きに、また、その見通しもないまま、それを語るのは無責任ではないか、ということです。
そうではない、そもそも経済的魅力をもっと発信すべきなのだ、という取り方ももちろんできます。ただ、その場合、仕事の魅力といいながら、もはや求められているのは「成功例」ということになります。つまり、私はこんな仕事をやり、こんなに安定しています、豊かです。あるいは、こういう分野ならば、こんな経済的妙味とともにやりがいがついてきます、というような。弁護士会内の「改革」推進のなかから聞こえてくるのも、「魅力」といいながら、実は要求の中身はこちらのようにとれます。
ただ、「改革」の現実を知っている良心的な弁護士ほど、これを必ずしも歓迎しているようにみえません。「生存バイアス」的な扱いが、「改革」や弁護士という仕事の現実を誤解させるのではないか、と考えるからです。アウトリーチを含めた努力、アイデアが成果を出しているとか、特定分野で安定した経済環境を築けているというエピソードを前提にした「魅力」は、個々に与えられた境遇やチャンスから生み出された場合もあり、また、そこに新たにどれだけの人間が参入できる経済的なキャパシティがあるかも不透明な面があります。そこを飛び越えて、旧来の「前提」があった時代の弁護士イメージとつなげて、なんとかなる、ととられかねない話をしていいのかどうか。
つまり、それで仮に業界を輝かせても、その責任を発信者が負うわけではなく、選択者の自己責任で片付ける。そのことへの不誠実さのようなものを口にする弁護士は少なくないのです。
魅力の向上という要求は、主に弁護士が能力的に既存のニーズにこたえろ、つまりは、もっと活用される存在になれ、という文脈で登場します。ミスマッチ論のように、本来、ニーズが存在していることを前提に、弁護士側の能力を含めた態勢が、そこにたどり着けていないということをイメージさせるものです。
「改革」推進派、特に増員路線維持を主張する側がしばしば取り上げる切り口です。ただ、実際に必要とする側がどのくらいの規模の弁護士を経済的に成り立たせる範囲で必要としているのか、について、決定的な不透明感がつきまとっています。まだまだある、もっと増やすべきという論調が繰り返し述べられても、経済的なキャパシティについて、何も保証するわけではない無責任さがあります。要は、うちは必要だ、私の知っている分野は必要としている、という話で、弁護士業態全体にかかわる増員規模を議論できるのか、ということです。
最近も10月5日付けの産経新聞が「法曹養成 活躍の場増やす努力せよ」というタイトルの社説を、こんな一文で締め括っています。
「政府は司法試験合格者年3千人という当初目標の下方修正を余儀なくされ、今年は1500人以上の目標をかろうじて上回った。弁護士会の中から、こうした目標を『大幅に減らすべきだ』との声があるが、疑問だ」
「弁護士や裁判官などの地域的偏在は解決されていない。災害被災地など長期的、組織的な法律家の支援を必要としている場がある。高齢者や子供を守る法曹の支援の重要性は増している。企業や官公庁、国際舞台で法律知識と交渉力を持つ人材が望まれている」
「弁護士会はこうした現状をみつめ、もっと活躍の場を広げ、法曹の仕事の意義や魅力アップの方策を考えてはどうか」
合格率が低迷し、合格しても「弁護士余り」、法曹離れ、結果を出せない法科大学院の再編という一通りの現状認識のうえに、タイトルのように、法曹の活躍する場がなければ、志望者は戻って来ないということもどうやら分かっていながら、「弁護士余り」を引き起こしている増員路線はそのままに、裁判官の問題にも言及しながら、なぜか弁護士会にだけ「魅力アップ」の要求を突き付けています。
そして、列挙されている「活躍の場」と想定しているものは、この手の新聞論調にお決まりの、どうやって経済的に支えるのかが不透明か、キャパが不透明なもの。どうしても必要な無償性の高いニーズならば、当然、経済的担保の議論の必要性が示唆されてもいいように思いますが、そこは弁護士が自力でなんとかしろという話です。ミスマッチの責任を法曹養成の中核たる法科大学院が背負うべき、というのならばまだ分かりますが、そういう話は一言もありません。
結局、これらの弁護士の「魅力」をめぐる要求は、果たして意味があるのでしょうか。少なくとも二つのことかいえるのではないでしょうか。一つは、前記社説が物語るように、その論調は増員政策と法科大学院制度という本丸にメスを入れない前提で繰り出されていること。そして、もう一つは、こうした「改革」の無理と展望なき論調も含めた、この世界の姿を見切った結果もまた、現在の志望者減、法曹離れにつながっていると推測できることです。
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